二回目の「こころの時代アンコール 禅僧ティク・ナット・ハン2 ひとりひとりがブッダとなる。」の放送
6月22日に Eテレ 「こころの時代アンコール 禅僧ティク・ナット・ハン」を書かせて頂きました。
今日7月2日に、その二回目の「こころの時代アンコール 禅僧ティク・ナット・ハン2 ひとりひとりがブッダとなる。」の放送が在りました。
ご覧に成って、共感された方と繋がりたくて、また ブログを書きます。 前回が、ティク・ナット・ハン師を初見でしたので、テーラワーダ仏教は南インド から東南アジア中心にさかえたため、南伝仏教・南方仏教とも呼ばれる。との見識で、師はテーラワーダ仏教(上座仏教)の傾倒の お坊さんと誤解してました。
ところが、今日2回目のティク・ナット・ハン師の放送を見て居て、日本の仏教に近いと感じました。ティク・ナット・ハン師が野外説法で鳴らされるお輪(チーンと鳴らす仏具)は見慣れたものですし、室内で鳴らされる鏧子(けいす)も日本のものと同じでした 仏像も梵鐘も日本のそれと違和感のないものでした。
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気が付けば、ティク・ナット・ハンの名前の前には禅僧が付いてます。
ベトナムの仏教を調べてみましたら、ベトナムは歴史的に、直接・間接支配も含め、中国の多大な影響を受けてきたので、ベトナムの仏教は、日本や朝鮮半島のそれと同じく、基本的には大乗仏教・中国仏教である。道教などとも混交しており、日本のように宗派には基本的に分かれていない混然とした形態だが、あえてその特徴を挙げれば、宋代以降の中国仏教と同じく、禅宗(臨済宗)と浄土教の色彩が濃い、「浄土禅」的性格が比較的強い。
大乗仏教 同士、だから日頃お寺の説教を聞く者には・・・、お話が解り易いのでしょう。
今日2回目の題名は。「 禅僧ティク・ナット・ハン2 ひとりひとりがブッダとなる」でした、 「ひとりひとりがブッダとなる。」ですので、自身の知る仏教用語で、如来蔵思想かなとも思いましたが、悟りの勧めでした。 悟り、覚り と追っかけてましたが、師の言葉では 気付きとなって居ました。 悟りでは、不可能な気持ちが強いですが、「気付き」ならば可能のような気がします。 大上段に「悟り」でなしに、気付と師は進めるのです。
実の納得で腑に落ちました。とても60分番組を覚え説明は出来ませんが、 今回放送は死についての解釈が心に残りました。 死は 全てが無く成ってしまう訳では無く、 変容するだけだと仰るのでした。
愛する者が 無く成っててしまった と思いがちだが、 直接見る姿が無くなた、 声が聴け無く成ったのでして、 波も無く成ってしまったのではないと説かれました。
師の仰りようとはいっそには成れませんが、 その人が死んで無く成ってしまったのでは無しに、形が変わっただけと云う事の様です。 空の雲の形は変わっても、物質の水は変わってないのです、それが雨、水に替わっても 物質的のH2Oは変わらないのです。 何かそのお話は「唯識」的にも思えました。
その様に考えられる方が居られましたなら、 今週の土曜 7月8日(土) 午後1〜2時の再放送をご覧ください。