孤思庵の仏像ブログ

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Takさんの 北鎌倉・東慶寺の「東慶寺・仏像展2016」

「仏像愛好の集」のメンバーTakさんより 北鎌倉・東慶寺の「東慶寺・仏像展2016」の投稿がありました。

【以下Takさんの寄稿です】
良いお天気になり、桜の満開時間も秒読みとなりました。今日あたり、遠目にはそろそろ各々の木々が半ば白く染まって来たようです。
 
色々とメールでお送りしているご報告について、折々ブログに掲載していただき、ありがとうございます。お手数をおかけしています。
 
今日は、以前からご案内していた、北鎌倉・東慶寺東慶寺・仏像展2016」(23日・水~43日・日、於:松岡宝蔵、会期中無休)に足を運んできました。会期の最後になりましたが、幾度となく拝観した仏様が大半だと思うと、なかなか腰が上がらない感じでした。昨暮には立寄れなかった境内奥の「墓苑」にも、久し振りに時間を掛けて巡って来ました。桜の開花にも少し早く、人出も少なく落ち着いた北鎌倉駅周辺でした。
午前9時に北鎌倉駅に到着後、そのまま東慶寺「松岡宝蔵」に向かいました。境内はそれなりに人出もあったようですが、「松岡宝蔵」の1階右手のショップには多くの女性の入館者が目立ちましたが、受付左手には、足を運ぶ入館者が無く静かでした。1階定位置の「聖観音菩薩立像」にも挨拶をし、時間を掛けて尊顔を拝して来ました。2階に上がっても、展示会場には先客が一人も見当たらず、一人占め状態でした。2階入り口正面にガラスケースに入った「水月観音菩薩半跏像」が、私を待っていて下さいました。しかし、物には順番と云うものがあり、まずは壁際に展示安置されている諸尊や古文書、絵画にも眼を通していきました。
 
・「如来坐像」(奈良時代・木心乾漆、漆箔、像高約40センチ、H3年個人より寄贈仏、左の掌に薬壺を持たないことから釈迦如来薬師如来か不明)
・「木造地蔵菩薩半跏像」(鎌倉時代、彩色、玉眼、像高約50センチ、胎内に応永25年・1418年と記す地蔵菩薩の摺仏、享保8年・1723年の文書と江戸時代の仏師三橋伝七を記す文書、舎利や歯などの納入品あり、平成5年・1993年の修理実施、従来頭部が室町時代、体部は江戸時代と推定されていたものが頭部体部ともに鎌倉時代の作との判断になって来た)
・「如来立像」(平安時代、一木造り、内刳りなし、像高約90センチ、原三渓(実業家、横浜三渓園)から和辻哲郎旧蔵で寄贈仏)
・「木像聖徳太子立像」(鎌倉時代、像高約60センチ、袴は緋色塗りが色落ちした後朱漆を塗布、当初玉眼だったのを後に水晶の代わりに木材・木片を充てている)
・「阿弥陀如来立像」(江戸時代、東慶寺二十世天秀尼念持仏、舟形光背付き)
・「薬師如来立像」(銅造、像高約80センチ、新薬師寺に伝わった香薬師如来像は奈良(白鳳)時代の秀作だったが昭和18年盗難に遭い未だに発見されていない、東大寺上司海雲師が文芸春秋社佐佐木茂索氏とともに東大寺にある石膏模型をもとに3体模造鋳造し1体が東慶寺に寄贈された)
・「達磨図」(江戸時代、臨済宗中興の祖・白隠慧鶴筆、京都国立博物館あるいは東京国立博物館で開催の白隠禅師250年遠忌記念「禅展」に出陳されるかも?)
・文書、仏画類については省略。
 
 
・「水月観音菩薩半跏像」      クリックすると新しいウィンドウで開きます
意外にも無指定で、神奈川県指定文化財だけとのこと。像高約40センチの木造で金泥塗り・彩色・玉眼となっています。岩にもたれて水面に映る月を愛でる姿と云われる観音像で、中国には、水墨画に多く描かれた楊柳観音像、白衣観音像と並んで、中国・宋~元時代に流行したものです。日本では、禅宗とともに入ったが、京都では仏画はともかく彫像は受け入れられず、彫像は鎌倉周辺にしか広まらなかったという。
これまでは、「水月堂」でしか拝観していなかったので、よく判らないこともありましたが、今日の拝観ではいろいろ新知見の収穫がありました。
岩座は像の背中で光背取付け個所直後までで、箱型の造りの様子が明瞭になっていました。正面前面から背後までを二分割した感じで箱型に組み立てられ、正面前面は、ちょうど観音像が坐する個所を囲うように、峩々とした岩座を擬している表現で、組み合わせ張り付けとなっています。云ってみれば、ミカン箱を2箱繋ぎ、周りに木片で岩を擬したように張り合わせ、真ん中の観音像が坐する場所だけ平らに何も細工をしないのが、台座の会場です。観音像は、両肩からの肉厚の裳が背中から腰部まで伸び、捲れ状の末端の彫りが施され、体部前面と同じような文様の痕跡がはっきりと判ります。光背は、細工の無い金属製の単純な環状のもので、像背後に小さな木製の支柱のみで、箱状の台の穴に差し込まれていました。像の頭部は耳後ろで割られ、内刳り、玉眼細工が施されています。残念ながら、耳部位から頭頂部までの接合部の状態が悪いのが目立ちます。また髻は小さいながらもきれいな髪の櫛梳られた表現がありますが、頭頂部の髻に被さった頭巾までが割れ目が甚だしく、心配と同時に修復出来ないものか気になりました。また、移動しているせいか宝冠台も留め金、金釘が外れたり、しっかり頭部に嵌められていない状態で、展示状態として気になった個所でした。宝冠の透かし彫りは精緻ではあるが、線刻部分がはっきりしない状態になっていました。瓔珞とともに後補と思うが、保存状態が十分でない感じです。体部では、右肩部分の接合部分がきれいでなく、不具合が目立つ状態だった。未生蓮華を持つ右手は、それなりに良く出来ているが、左手先は候補と思われ、手の甲や指先など像に合わず不自然な造りとなっていました。左腕にかかる裳の先が垂下し、岩座に被さる部分は、岩の形状に合わせた裳の形状になっていたり、前面の裳部分にも岩との形状合わせがきちんと処理されてました。目立つ個所として、右手裾部分や右脚膝部分、そして左腕から岩座に掛かる裳の垂下部分は、下地の絹布の細かい網目状の織り部分が、表面に露出している個所があり、詳細にわたってみると、かわいそうなくらいに痛々しい状態になっていました。
それでも、やはり月を愛でる観音の姿は、怪しいまでの静寂の世界で、麗しく静かな甘美な雰囲気を醸す存在は、観る者の観想を誘うものでした。右斜め前から伺う際の顔の表情と、左斜め前から伺う表情では、観る者の意思の在り様の違いが感じられて、何回も見比べてしまいました。あらかじめ仏画でイメージしても、制作当時の金泥塗り彩色の様子が、イメージ出来ないので、予想される華やかな雰囲気と比べて、現在の像態との落差(格差?)が大きいものです。やはり、「水月堂」での、金色に輝く円窓に囲まれた部屋で感じる、物静かな中にも明るい華やいだ雰囲気とは異なり、観音像に相対する鑑賞者の心理の動きを、写しているのでしょう。
観音像の説明パネルには、「水月観音像は、これまで室町、南北朝時代の作と云われてきたが、頭髪や衣の写実的な表現がみごとで、鎌倉時代13世紀の作とみられる。東慶寺開山・北条時宗夫人の覚山尼にかかわる遺品である可能性もある」との説明がありました。
 
 
「松岡宝蔵」を退出したのは、お腹の虫が呼んでくれたからで、午後1時を優に過ぎていました。午前中に比べれば、はるかに多くの観光客が訪れて来ていました。緩やかな傾斜の石畳みの坂道を登り、久々の「墓苑」を訪ねました。まず、域内右手に、「覚山尼」墓、石段を下って崖に向かい文芸評論家「小林秀雄」墓、奥に向かって小説家「田村俊子」墓、思想家(「古寺巡礼」著者)「和辻哲郎」墓、出光石油社長「出光佐三」墓、哲学者「谷川徹三」墓、哲学者「鈴木大拙」墓、哲学者・教育家・文部大臣「安倍能成」墓、哲学者「西田幾多郎」墓、岩波書店創業者「岩波茂雄」墓、文芸春秋社長「佐佐木茂索」墓、民法学者・教育家「中川善之助」墓、小説家「高見順」墓、陸上競技織田幹雄」墓、女子バレーボール監督「大松博文」墓などで、場所の地図を貰っていったのですが、なにぶんにも昔の墓所で道や区画がはっきりせず、探すのに苦労しました。それでも背の高い多くの樹木の中、幽邃の雰囲気があり、久し振りの「墓苑」巡りを、ゆっくりとしました。やはり「墓苑」まで足を運ぶ人は少なかったです。
 
 
追加情報:
東慶寺の機関紙ともいうべき『季報東慶寺』という機関紙があります。寺内で無料で入手出来ます。このたび、2016年春号・Vol.19を手に取ってみました。お知らせは、寺域内での各種行事の案内や行事紹介などです。今回の表紙には、「松岡宝蔵特別企画展『鎌倉の名宝 明月腕』漆絵、美の饗宴」(会場:松岡宝蔵、会期:45日・火~73日・日、9:3015:30 月曜休館、入場無料、入山料のみ)の紹介の為、展示責任者の秋田市立千秋美術館「小松大秀」館長の寄稿・説明の文章が掲載されています。小松大秀館長の「記念講演会」も見開きページに紹介されています。東慶寺のHPにも紹介されています。小松館長は、元東京国立博物館副館長を務めた方で、私の学生時代にも関係した方です。
また、見開きページのもう一方には、「日本産漆の現状」と題して、本間幸夫氏が文化財にとって欠くことの出来ない「漆」について、危機状況を述べています。一度眼を通してみて下さい。
 
 
 
 
午後230分に東慶寺を退出してからは、円覚寺で遅い昼食を摂り、足早に巡って、円覚寺ハイキングコースをトレッキングして覚園寺へ下山し、鎌倉駅から帰宅しました。足腰が疲れました。花見には早かったけれど、でも気分が良かったです。

【以上 Takさんの 寄稿文です】