孤思庵の仏像ブログ

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【報告】興福寺文化講座(東京)「興福寺と光明皇后」8月20日(木)


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当ブログの 8/19午後11:03の投稿「Mさんから寄稿「藤田美術館快慶作地蔵菩薩について」」 の末尾に 追記がされました。 




 興福寺文化講座(東京)「興福寺光明皇后」8月20日(木)17:30~ 詳細は 奈良興福寺文化講座(東京) | 講座案内 | 法相宗大本山 興福寺
www.kohfukuji.com/discourse/ を参照ください。

 http://www.manyou.jp/koko-katudo/toda_kumiko/images/onjo2005_15.jpg  クリックすると新しいウィンドウで開きます 

★上段の講座を メンバーのTakさん・OoTさん・Fujさん・Nakさん・孤思庵が受講しました

第一講「興福寺光明皇后」 興福寺執事長 夛川 良俊師(←興福寺貫首 夛川俊映の御子息と友人から教えられました、 今日は親子の共演ですネ!)

光明皇后の 抜萃年表が資料配布されました  抜粋と言っても33項目も在るかなり詳細なものでした。年表に沿って、光明皇后の出自と事績を述べられました。 全くの歴史のお話でして・・・寝不足も手伝って正直、半分いねむってしまいました。それでも慈悲の心と持つ一方 女傑と…そして かなりのドラマチックの人生とは分かりました。

無学の恥さらしなのですが・・・年表の中に『楽毅論』書 と在り、難しい論文を著したのかと誤解しました。調べましたら 有名な臨書した自筆の書だそうです。御臨『楽毅論』は、白麻紙二枚半をつかって書かれています。これに黄麻紙(こうまし)一枚を継いで「天平一六年十月三日、藤三娘(とうさんじょう)」との署名がありますが…、これが文書形式的考察で、光明皇后の自筆かどうかを疑う指摘があるそうで… ここでも歴史学の広範を再認したりでした。歴史嫌いの自分として良い子守歌でした。申し訳ありません!


10分ほどの 瞑想の時間(椅子坐禅)を挟んで



第二講『春日権現験記絵』の世界(五) 興福寺貫首 夛川俊映師

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八巻六話  失意で室内の膝を抱えて座る僧 、松の樹上には枝で顔が隠れている束帯姿の影向の春日神 (配布資料より転載)


巻八・第四話   興福寺の壱和(いっか)僧都維摩会の講師を祥延に先を越され 失意と不満で 出奔し熱田社の巫女に憑依の春日の神より信託を受けて 興福寺に戻り 翌年は維摩会の講師(こうじ)を勤め栄達するという お話でした。 ここのテーマは…人は移ろいでも、縁に神は変わらず思い続けるでして、キーワードは神の台詞で「我をすつるといへども、我は汝をして、かくもしたひしめす也」です。人は移り気でドライでも、神さもの方が情が深く、想い続けてくれるでした。
絵巻の絵の方は 憑依の巫女の顔は柱の陰に隠れ現していません。  もう一つの第四話も 失意で出奔 邨瀬の僧のお話方でも 松の樹上に春日の大明神が影向するの絵でも、そのお顔は松の葉に隠れ現されていません。 表現を超えるものは現さない! 極意と思います。 我等仏像ファンで言えば秘仏が其れに当たるのでしょうか?!

ここでの文中に維摩会の講師が出て来ました。 仏師の法印などの僧綱の官位(僧位)で勉強しました時の、講師(こうじ)を経ないと授位出来ない云々を思い出しました。

また今日の『春日権現験記絵』の前の箇所には、「熱田の社に参りて、しばしば法施をたむ来る程に、」と在りまして、これは「神前読経」の事と判りました。この他にも 興福寺と春日社は一体のものが随所に現れてまして、現代人が 神仏混淆の事を奇異に思うは、 明治政府の神仏判然令(神仏分離令)による 現在の変容を思い知ります。 ちなみに春日権現記などの鎌倉時代の 興福寺と春日社はどっちが優位だったと思いますか? 私も興味が在り識者に尋ねましたら、即、「興福寺」と返答されました。

どちらも藤原氏の為の寺社ですが、春日神社は元々は興福寺から独立した存在で、当初は発言力を持っていましたが院政期以降、興福寺の発展により取り込まれ鎮守社となりましたと読みます。
と云うより摂家の氏寺のイメージに収まるものでなしに、興福寺の勢力は偉大で奈良を牛耳っていたようです。
(藤原家の私印 のスライドが出ました。読めてカッコいいと思ったのですが、残念ながら覚えていません!善を積む藤(原)は栄える的な内容でしたと思います。色々なキーワードでネット検索するも無理でした。心当たりの方は居ませんか?)

講演の内容にも藤原家だけだなしに、天皇や皇后が興福寺の堂塔・仏像が建てた事績も数あり、元来、藤原氏の私寺である興福寺だったのですが、途中からの造営事業は国家の手で進められるようになったそうです。(Wikipedia-興福寺を参考ししました)


またWikipedia-社勢力 には、
延暦寺は、配下においていた祇園社が京の鴨川の東側に大きな境内(領地)を持っていたこと、興福寺大和国一国の荘園のほとんどを領して中世を通してその経済力で京に大きな支配力を及ぼした。強大な寺社勢力である延暦寺興福寺を合わせて「南都北嶺」(なんとほくれい)と称された。と在りました。

興福寺は単に藤原氏の寺のイメージから外れて来ました。 今度は古代・中世における東大寺興福寺の勢力比較に興味が出て来ました。 南都焼き討ち以降は東大寺の方が復興が進むの程度は知りますが、歴史に強い友達に東大寺興福寺の関係など教えてもらいたくなりました。