孤思庵の仏像ブログ

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Takさんの投稿5/29  5月中旬からの活動報告ーその2(和歌山県博)


Takさんからの投稿5/29
5月中旬からの活動報告ーその2(和歌山県博)



●5月22日(水)和歌山城 ⇒ 和歌山県立博物館「仏像と神像へのまなざし展」:

和歌山県立博物館公式サイト: https://www.hakubutu.wakayama-c.ed.jp/ 

博物館ニュース:  http://kenpakunews.blog120.fc2.com/ 

早朝からの清々しい上天気に恵まれ、和歌山駅からの広い通りをのんびりとした散歩気分を満喫しました。久し振りに「和歌山城」の天守閣まで登り、幼稚園児の遠足に同行し、前日の雨後のぬかるみでは保母さんと一緒に園児の手を取って滑らないように手助けしたり、スナップ写真のシャッターを切ってあげたり、階段の登りを後押ししたり、登り切った後はハイタッチと久方ぶりに小児と遊びました。天守の各層に
は、展示物も多く、鬼瓦や鎮壇具、お寺のように鎮壇の出土品まであり、ガラスケー
スの光の反射に手こずりながら、あるいは無視しながらシャッターを押していまし
た。

忘れないうちにと市役所前の「歴史館」で「南方熊楠生誕地」、「熊楠と孫文の交流
場所」、「坂本竜馬の短期間の寓居跡」などを教えてもらいましたが、職員の方も場
所について不確かで、教えていただくまでにかなり時間がかかり待たされました。熊
楠の生誕地と云っても生家が残っているわけではなく、最近製作の胸像が住宅地の路地角に立っているということでした。今日の最後に立寄ることにしました。

和歌山県立博物館: 広いロビーから展覧会場へ入ると、目的の展覧会会場ともう一つの展覧会がハッキリと区別が出来ず、順路が不明で、途中からもう一つの展覧会場をめぐっていくようになってしまったので、職員にきちんと教えてもらい、目的の展覧会場をめぐった後で、もう一つの展覧会場へも脚を伸ばしました。とにかく職員からは「身近に見て触れて体験して楽しむ理解する博物館」ということを聞かされ、地元密着の大河内学芸員や「伊東史朗館長」の考えなのかと感心しました。なるほど触ってよい展示品がいくつもあり、その説明資料もむしろ学生向けのものがそこら中に置かれています。また、その精神の一環として「出展作例の写真撮影」原則OK(一部所蔵品でないものは不可、でも少ない)で、少ない入場者の中からもしきりに
シャッター音が聞こえて来ます。ただし、展示ケースのガラス越しでは反射光などが
あり、満足に撮影出来ないものもあります。これも地方の美術・博物館ならではの取
り組み方だな、と深く想いました。

多くの神像や仏像の展示の中では、限られた会場ではあるもののコーナーをはっきりと分けて分かり易く工夫されていました。


「評価と保護のまなざし」コーナー:

「古社寺保存法」の制定、「臨時全国宝物取調局」の調査から「歴史の鉦徴」、「美
術の模範」として和歌山県でも寺宝等の調査・発掘が行われて行き、その状況の一端を彫刻修理を担当した「新納忠之介」(にいろちゅうのすけ)の足跡をたどりながら
展示を巡ります。

「十一面観音菩薩立像」(重文、広利寺、正平8年・1353年): 

一見して像高1m強の大きさの均整のとれた十一面観音菩薩立像。二見しておかしいことに気付く。腕が左右合計4本しか確認出来ない、「一面四臂の観音菩薩立像」、右手2本は掌をまえに施無畏印と垂下し持物を持つような形の指先形状、左手は屈臂して胸元で蓮華を執りもう一方で垂下した指先で小さな巻子を持する。説明板に「諸説不同紀」や「十一面観自在菩薩心密言念誦儀軌経」では垂下した右手に数珠、垂下した左手に水瓶を持つとしており、現在の持物は後補と理解できる。オペラグラスが無くても金泥塗りの上に裙や条帛などに截金文様や、盛り上げ彩色が綺麗に残る。胎内納入品には経巻ほか印仏などがあり、明治32年、新納忠之介の修理が行われた際に納入品から詳細が知れた。その時の記録や納入品収納箱に記した新納忠之介の墨書によれば、この像は河内国の「西方寺」安置で「天王寺仏師法橋頼円」らであったことが知られる。また箱内側底面に新納が明治32年に「体内の銘文を再見しがたいがため後の鑑として」と記している。

地蔵菩薩坐像」(重文、歓喜寺): 

像高約80㎝の大き目の地蔵菩薩坐像で、体躯のガッチリとした迫力、勢いを感じる均整のとれた坐像という印象だ。袈裟、覆肩衣、裙を着けて、左手を屈臂して宝珠をとり、右手は掌を広げて左膝頭前に出す与願印を表す。面相も両眼ともにしっかりした半眼で眼鼻立ちもはっきりとした表情に力が感じられる。上半身も右脚を上に組む膝脚部も大胆な彫りの深い表現は目立つ仏さまだ。本像の古写真や歓喜寺宛ての帝国博物館鑑査状や、鑑査状に「寸尺測定方式」(マニュアル)を添付して歓喜寺仏さまの実際の詳細な寸法を測るよう要請している。この直後に本像は「国宝」に指定されているという。つまり新納忠之介が本像を修理し、評価され、国宝に指定されている経緯が分かる。

「古社寺保存法・国宝修繕請負契約書写し」(道成寺): 

明治30年に公布された「法」の条文の写しと同法に基づいた資料と初めての修理(国法修繕)の際の「契約書」の写し。現在は「道成寺宝仏殿」に安置の「国宝・千手観音菩薩立像及び日光菩薩立像・月光菩薩立像」の関係する書類を一冊に綴じた簿冊のうちの一部分。何ページにもわたる紙面びっしりに書かれた内容は読み解けないが克明な内容であることは感じで分かる。

「夫須美大神坐像」(熊野速玉大社。国宝)、「熊野速玉大神坐像」(熊野速玉大
社、国宝)、「家津御子大神坐像」(熊野速玉大社、国宝)、「國常立命坐像」(熊
野速玉大社、国宝): 

熊野速玉大社の祭神像として伝来した平安時代前期の神像4体です。予想外に大きな神像で、仏さまと違い、木造のカタマリという感じで単純な造作で、あまり美的な観点・意匠での製作は、本来姿の無い神像ということを考えると、さもありなんです
が、それでも顔付きなどは仏さまより人間味があり、雄偉な男神、嫋やかな女神、元
気な息子神のような感じに観えて親しみが持てます。当初の神像の保存状態では「臨時全国宝物取調局」では国宝指定は出来ないとの評価が出ていたが、新納忠之介達が神像の修理を行なった際に「何分、ご神体は損傷の激しいものもあり、当時はまだこれといった修理の方法も判らず、苦心したことを覚えている。」と述べていたそうだが、その修理の数年後に国宝に指定されたということです。この例でも新納忠之介の修理が結果として国の指定を受けていることがハッキリしているということです。


「祈りと継承のまなざし」コーナー:

「十一面観音菩薩立像」(名杭観音講): 

像高約150㎝ほどの大きな上半身に比べて下半身が大きめ太めの仏さまで、頭のテッペンから左上膊を含み蓮華台座までがヒノキ材の一材で彫っており、大胆な彫りの像態はインパクトがあります。地元の小堂に祀られて、地元観音講の人々によって永く守られて来たという、初公開展示の像だそうです。

薬師如来立像」(善福院): 

像態は着衣の造作が彫りが浅く衣文襞が少なく単純なせいか、なで肩で直立で顔つきもどこかの定朝様の仏さまを観ているような気分になる、体躯が薄いところなど全く印象に残らないような、平凡な定朝様のスタイルに感じられる。蓮華台座は後補だそうだが、本像と異なり細かい蓮弁は十二方四段の緑色で、各蓮弁に火焔宝珠を表す凝りようです。頭身を背負う光背も後補ながら華やかな色彩の頭光と身光、鮮やかな彩色の宝相華や緑色と赤色の牡丹華の彩色が眼を引くが、残念ながら透かし彫り周縁部の上部先端部が欠落しています。

大日如来坐像」(妙法寺): 

像高約130㎝で、まさに綺麗な仏さまで腹前で定印を結ぶ胎蔵界大日如来坐像。すぐ眼に着いたのは、頭部には慶派仏師の造像の仏さまのようにきれいなすっきりとした髻ではなく、大きな太い高い髻でそれでいて嫌いな結い形で正面に花形の結びを表現する。修理銘のある仏さまだが資料によると、像内面に真言・種字などが記されていて「弘安四年…大仏子法橋定祐/小仏子僧定□」とあり、修理した記録であろうという。仏師定祐はの名は幾つかの仏さまに遺っており、高野山から四国にかけて活動した仏師らしい。

観音菩薩立像」(霊現寺):

像高約70㎝の小さめの仏さまで放射光背を着けた非常に綺麗な姿で、一目で私がゾッコンの「東大寺中性院弥勒菩薩立像」に似ているのにビックリです。好青年を思わせる顔付きの上に高くスマートな髻を結い、天冠台には左右に火炎宝珠形の冠飾を付け冠繪を表す。正面の大きな宝冠には頂上に火焔三宝宝珠を頂き、定印の大日如来坐像を中央に四方に四仏坐像を配した透かし彫りの宝冠は見事です。瓔珞も胸元に細かい細工の金属製のものが下がります。頭光背は放射光を四方に発し、左右に円相と雲気を配しています。キリっとした顔付きに少し腰を捻った流麗に流れる条帛、裙、天衣は眼を見張るもので、像の背面にも綺麗に造作が省略されることなくキチンと表現されています。精緻な表現は見事です。本像は観音菩薩立像となっていますが、監修者つまり大河内智之学芸員はある経典に五如宝冠を戴くという「弥勒如来像」として造像された可能性があるという。そこで彼は快慶のごく周辺の奈良仏師によって造像されたものと推定しています。鎌倉時代の初期の仏師快慶の造像作例と比較しても遜色ないほどです。主催の県博側でも気を利かせて、一体のみでガラスケースに納められて展示されており、360度グルリと拝することが出来ました。おかげで私はカメラのファインダーを覗きっぱなしでした(四周ガラス張りは反射光が多く撮影にはちょっと不向きか?)

十二神将立像」(12体うち3体、大泰寺):

像高約40センチ。3体(子神像、未神像、寅神像)が並んで展示されているが、意外
と小像なのにビックリ。展示は3体だが、隣に12体すべての写真パネルが掲示されており、各像がどのような像態かが分かるようになっています。各像は頭部に十二支獣を載せており着甲で持物を持ち岩座に立つのは共通している、各像共にそれなりに色彩が残る状態で各々の面相を観てみると、これまで拝して来た十二神将像と全く違うことに驚いた。こんなに面白い顔をした神将像があったのか。甲冑を着けた武将でありながら、丸々としたふくよかな身体つきの諧謔的な神将が多く列するし、その顔付きのユーモア溢れた表情には笑みがこぼれる。また、十二支を載せる頭部の形状もこれまでの像にない大袈裟な誇張したもので、3体のみならず12体すべての展示が望まれるほどです。

阿弥陀三尊像」(持宝寺):

中尊像高約80㎝、脇侍像像高約50㎝。衲衣、覆肩衣、裙をまとい直立する三尺阿弥陀像。右手は屈臂、左手は垂下しそれぞれに掌を前に向け第1・2指を捻じる。脇侍像は髻を高く結い天冠台を表し条帛、裙、天衣を着け腰を屈め膝を少し折る姿勢。どこか中央寺院の阿弥陀三尊像の像態を並べて、一皮剥いたら(現実には剥けないが)こんな感じになるのかと思うような仏さまで、私には好感をが持てる仏さまです。玉眼嵌入、前後剥ぎなど三像共に均整のとれた腕の良い仏師の製作かと思われるが、ほとんど素地に観えるのでみすぼらしく感じるが、ものの記録によると漆箔仕上げだそうで、出来た時はさぞかしきれいな仏さまだっただろう。

2014年からの修理と調査により、阿弥陀如来像の背面材内側に「延元元年・仏師淨
慶」、観音菩薩像の前面材内側に「建武四年・仏子僧淨慶」の墨書銘がある。この元
号は調べたところ「南北朝時代」の延元元年は1336年、建武4年は1337年と分かっ
た。この時代は一応南朝北朝に分かれて争っていたので、天皇の治政によって元号も違い、たった1年違いだが時間がすごく違うように感じる。三尊はほぼ同時に製作されたと判断出来るが、一応銘からは中尊を先行製作し7か月後に脇侍像が製作されている。それでは何故中尊と脇侍で造像銘の表記が違うのか。南北朝の世の中だか、一方から睨まれないようにそれぞれに分けて表記した?そんな馬鹿な。この地がどんな場所なのか?寺の勢力範囲はどちら?いろいろと考えたが、素人の私にはすぐには結論が出ない。また仏師淨慶とはどのような作例のある仏師?作例としては和歌山県尾鷲市の真巌寺の薬師如来坐像が嘉暦元年(1329年)に造像記録があり、また那智勝浦の大泰寺の地蔵菩薩坐像は貞和3年(1347年)は作風が近く仏師を同じくする可能性があるという。

持宝寺・阿弥陀三尊像は、寺の場所が海岸に近く海抜が低いので災害の心配があることから、所蔵寺院の意向で県立博物館に寄贈し、博物館側で地元の和歌山県立和歌山工業高校と協力して3Dスキャナーを用いてABS樹脂製の「お身代わり仏像」の製作を行なっている。


「共感と支援のまなざし」コーナー:

10体ほどの仏さまが並び、中には眼を見張るほどに立派な姿の仏さまも観ることが出来ましたが、中にはどこか朽ちた欠損した様子が目立つ姿の仏さまが多く観られました。明治以降、「仏像や神像を守り伝えてきた各地の集落においては、過疎化や高齢化による担い手の減少により、寺社や堂舎、小祠の維持が困難になっているところが増加しています。現在、そうした地域を狙った仏像や神像の盗難被害が多発していて、緊急の防犯対策とともに、これからの継承へのあり方を考える必要に迫られています。悉皆的な文化財調査、クラウドファンディングによる仏像修理、最新技術を活用した「お身代わり仏像」の作製、そして守り伝えた人々への敬意と応援。地域と人々の歴史を伝える仏像と神像を、多くの人がその大切さに共感し、支援する、未来への新たなまなざしを考えます。」「図録」の訴えている言葉そのままです。


2019年5月29日 AM4:00  Tak