孤思庵の仏像ブログ

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Takからの投稿 奈良に行ってきました。(奈良博、興福寺国宝館、興福寺中金堂落慶法要)

Takからの投稿 : 奈良に行ってきました。(奈良博、興福寺国宝館、興福寺中金堂落慶法要)

106日(土)午後から11日(木)まで、大阪から奈良に出掛けて来ました。
106日~7日:大阪・司馬遼太郎記念館ほか近世政治思想史関係学習会及び見学会
8日~11日:奈良博及び興福寺国宝館、中金堂落慶慶讃法要・延暦寺厳修と興福寺厳修(結願)⇒12日夕方に帰宅。家事を整理してやっとPCの前に落ち着きました。
・さっそく、訃報が届き明日13日(土)は都内の斎場行きです。
 
奈良博「愛媛・如法寺・木心乾漆造り毘沙門天立像」公開:
この情報が既に紹介されていたらごめんなさい。削除してください。
奈良博プレスリリース: 
京都新聞WEB: 
興福寺中金堂落慶法要参加の前に、102日(火)に見た奈良博・プレスリリース記事(岩田茂樹研究員)が気になり、大阪の2日間の学習会(明治維新150年記念)の帰りに奈良博へ寄って目当ての仏さまを拝して来ました。出掛けてみると、「奈良国立博物館だより」第107号(101112月)の「出展一覧」には1010日~とあり、第4室に展示の記載があります。「博物館だより」の最終ページには「展示品のみどころ」欄に、写真付きで岩田茂樹研究員の説明が掲載されています。奈良博では73日から「なら仏像館」に展示していたそうですが、奈良博のプレスリリースが101日で後になったそうです。奈良博展示は12月いっぱいの予定だそうです。奈良博のボランティアの方に伺ったら、NHK奈良放送局では102日に地元ニュースで紹介していたそうです。
館内では第4室の端で1体だけが展示されており横の壁に説明板がありました。部屋へ入ってすぐ右隅の位置に一体のみのガラスケースでの展示で、幸いにも側面からの拝観や斜後方からの拝観も出来ました。像の足元の像名札には、確かに赤字で「新資料」とありました。展示中の像に対して説明板は102日になってから掲示したそうです。30㎝ほどの小像で、像本体に比してしっかりした邪鬼や綺麗な岩座や四角台座や框が、後補かと思えるほどでした。特に2体の邪鬼は1体が仰向けで胸を踏まれ、もう1体が伏して後頭部を踏まれている姿で、彫りの細かく深い巻髪だが獣耳を付けているのが明らかで、黒っぽい身体とは違って頭髪が遠眼には、毛羽立っている薄茶色のような別材のように感じました。像名札には「木心乾漆、彩色、截金、奈良時代8世紀」とありましたが、彩色や截金などはオペラグラスでジックリ観ても、像全体が煤けているせいか、何となくでしか分からずはっきりと判りません。専門家の眼や機械で分析すれば明らかなのかもしれませんが…。宝塔や戟の持物は無いものの(展示していなく保管)、右腕を大きく振り上げた「ミエ」をきる姿で、上半身が太め大きめで、反対に下半身が太めで寸詰まり感の強い像で、私にはお世辞にもバランスが良い立ち姿とは感じませんでしたが、それでも印象的で小像とは思えない量感のある雰囲気です。あまり欠損傷が見当たらない保存状態の綺麗な仏さまで、甲冑や鰭袖などの表現も誇張やいやみが感じられず、一瞥して気に入った仏さまになりました。像本体や邪鬼の黒目に明らかに別材(金属か黒石か)が嵌入されているようです。外見上は不明だが、両腕の固定は金属心で取り付けられているということです。発見当時は厨子に入っていたそうですが、底面から台座に向かって釘打ちがされていて、台座を厨子から取り出せない状態だったそうです。岩田研究員は、「造形が面白く精細に富んでいる。これだけ構造と技法が分かった木心乾漆像は他にはないだろう。小さい像だが歌舞伎役者のような躍動感がある」と感想を記されている。
愛媛県大洲市では、市内に所在する彫像についてH28年(2016年)から調査が始められ、奈良博が調査委託を受けたそうで、当初の調査は同寺の木造地蔵菩薩立像(県指定文化財鎌倉時代・建治2年(1276年)・足枘墨書銘・法橋興慶作)だったようですが、他の彫像についても調査を広げたところ、本像が発見されたそうです。岩田研究員が奈良博に持ち帰った本像については、あの鳥越俊行保存修理室長がCTスキャン撮影を行なったそうです。プレスリリースにもCT画像が紹介されています。岩田研究員は像態、構造、技法、制作時期などについて分析結果を細かく発表しており、「木心乾漆」についての調査分析も細かくされています。また、木心乾漆像での他像作例も紹介して、類似の作例があるか否かにも言及しています。比較と云っても東大寺諸仏などは調査が進み推定復元までされて、繧繝文様や彩色なども資料などで発表されていますが、この仏さまの何処を観たら比較が出来るのか、似ているのかいないのか等は外観だけでは皆目見当がつきません。次回のサンデートークなどの説明に期待したいと思います。同技法による作例27件(うち国宝6件)で大半が奈良時代の制作であるなか、如法寺像を新出作例として注目しています。また独尊像なのか四天王像中の多聞天像なのかは不明だが、畿内中心の作例にあって愛媛への移像?との可能性を指摘しています。如法寺に伝わる地元の古文書「富士山志」(とみすさんし)では、江戸時代に「大洲藩士が大坂勤めの際に、奈良・信貴山朝護孫子寺)で出会った僧侶から「楠木正成」の念持仏だったという「毘沙門天立像」を譲り受け、藩主の菩提寺である如法寺に寄進したという記録があるそうで、これが畿内から移されたという史実として手がかりになるのではないか、と推察しています。
最後に仏像館の受付の女性には、私が仏像館退出後にわざわざバス通りまで追いかけて来てくださり、新聞の切り抜き記事のコピーやA4判に焼いたCT写真をいただきました。感謝です。
 
奈良博・サンデートーク
岩田茂樹研究員によると、大洲市からの委託調査であるこの仏さまを中心にまとめて、奈良博での講演会(サンデートーク)を予定しているそうです。来年ですが…。
31217日(日) 14001530 「仏像調査からわかること その5―南予地方の調査の成果を中心にー」
奈良博サンデートーク: 
 
因みに、奈良博サンデートーク1014日(日)の「仏像写真考」奈良博・佐々木香輔氏が、「仏像と日本人」の著書に出てくる写真家の話しに関連することを紹介されるので、参考になるのかもしれません。
 
奈良博・仏像館ボランティアの方とは、先に開催された「糸のみほとけ」展の数多くの繡仏の世界について、すごく驚嘆し感銘を受けたことで話しが盛り上がり、今後繡仏は劣化が激しく修理もままならないことから、仏像以上に復元が難しく、今回の展覧会ほど大きな繡仏の展示が一堂に会することは無いだろうということでした。現在では編めないような技法で大画面を緻密に編む昔の職人・工人に感嘆です。やっぱり無理して奈良博まで脚を運んで拝しておいてよかったと思いました。普段はあまり展示などが少なく眼にする機会が少ないせいで、感激は仏像以上のものがありましたから。古い時代の繡仏の画構成を支える編みの超絶した技法を駆使した、「刺繍釈迦如来説法図」に感嘆したことがボランティアの方と話しが合って、またしても長時間の立ち話しとなりました。今回の奈良博は、如法寺・毘沙門天立像と繡仏のことで終始しました。
 
 
興福寺・国宝館「再会」、「邂逅」展示
興福寺国宝館: 
昨年、青山・根津美術館で開催された「興福寺旧蔵・梵天像、帝釈天」を、今度は興福寺・国宝館の出口間際のコーナーで展示しています。(101日・月~1115日・木)。
隣りに「志度寺縁起絵」が展示されています。(1幅:101日・月~105日・月)、(2幅:1016日・火~1031日・水)。
志度寺は、ご存知の通り香川県さぬき市にあり、藤原不比等が寺を大きくしたと云われ、謡曲「海女(海人)」で有名な真言宗の寺院です。絹本着色の「志度寺縁起絵」は6幅、鎌倉時代から室町時代の制作で、十一面観音菩薩の霊験など種々の伝承について描かれている掛福絵です。期間を区切って2幅を展示替えです。1幅の画中に物語の場面をいくつも混ぜ込んだ画面構成になっているということで、画面と不比等による興福寺創建時の物語の筋道を対比しながら観ないとわからないようです。他に通期展示の「石造泗濱浮磐」(せきぞうしひんふけい)は謡曲「海女(海人)」では「華原磐」と共に唐の「高宗」から送られたという中国の雲版だそうだが不明。また「大織冠像」(たいしょくかんぞう)は、絹本着色の仏画で江戸時代の作のようで、縦型の掛幅に束帯姿の藤原鎌足、僧形の定恵(じょうえ)、束帯姿の不比等を描き三尊形式であらわされており、多武峰曼荼羅ともよばれるそうです。大織冠は、天智天皇鎌足に授けた最高職位で、威厳なる画風があるそうですが非才な私には、あまり立派なものには思えませんでした。
東博や新宿の講座などでしばしばお会いする小柄な女性に偶然にお会いしました。やはり興福寺の法要のために奈良に来られたそうです。皆さんお元気ですね。
 
 
●翌日からの2日間は、「興福寺・中金堂再建落慶法要」参加:。
中金堂落慶法要(1NHK): 
中金堂落慶法要(2・朝日新聞):
10日の「延暦寺法要」は、天気にも恵まれ、清々しい空気の中で執り行われました。早朝から大勢の参集があるなか、私は会場内に入らずに、940分頃に、興福寺の僧侶が20人ほど本坊から列を組んで会場に入られた後、天台座主延暦寺「森川宏映」師が興福寺本坊から出発し、多くの延暦寺僧ほかの僧侶に先導、脇侍されて「こし」に座して、傘を差しかけられながら五重塔と東金堂の間の道を通り、中金堂の南面(南大門跡に面した)から会場内に入場するまでを追いました。師の姿が会場内に入った後、自分も追っかけ入場しました。随所に鉄パイプでやぐらが組まれてTV中継用の機材が設置されており、床面には太いケーブルがはい回り、高齢者には足元が危ないくらいでした。南面から中金堂正面に向かって参道が伸び、多くの色とりどりの播が立ち並ぶ荘厳な景色が圧巻でした。森川座主は90数歳ですが、この法要を執り行ないました。多くの行事が参道正面の「舞台」上で行われました。「表白」では大きなよく通る声量でなされ、高齢であることを感じさせませんでした。森川座主の表白の中に、注意して聞いていた文言が「最澄」、「北嶺」でした。他の述べていることは平和祈願のようなことが僅かに聞き及べたくらいです。歴史上では興福寺延暦寺の長期間に及ぶ確執があり、「南都北嶺」という言葉が出来たほどで、天台座主興福寺で法要を行なうのは、1399年以来619年ぶりだそうです。私はこの興福寺延暦寺の確執の歴史から、今回の4回の法要の中でも他寺院の法要を外して、延暦寺と結願の興福寺の法要に2日間続けて参加をしたわけです。法要終了後に聞いた話しでは、延暦寺や末寺ほかから25人の僧侶が参列し、読経のあと声明を唱えて落慶を祝いました。老僧も青年僧もみな、きらびやかな衣装で着飾った姿は壮観で、見とれてしまうほどでした。7日の法要や昨日の法要などで、東大寺薬師寺などの南都寺院の長老が今日と同じように表白を唱えられているはずで、東大寺・狭川別当7日におこなっているはずだと思いながら、確かめていませんでした。献茶、表白など次々と舞台が変わり、約1時間30分の法要は、あっという間の感じでした。中金堂前には左右に大きな「鼉太鼓」が赤や緑を基調にしたきらびやかな色調で2頭の龍が大きく鼓を囲む表現の龍火焔と鳳凰火焔の一対太鼓がひときわ存在感を示していました。この日にじっくりと拝しておいて良かったと後になって思いました。翌日は降雨も予想されており、式典開催前から二体共にグレーのシートで覆われて姿を観ることが叶わなかったからです。
私は来賓席のすぐ後ろで「文殊講」の席のすぐ隣りで、結構参道や舞台に近い中盤くらいの角に席が確保でき、前の人の頭や身体が邪魔にならず、自分も隣人の邪魔にならずに左右に動けて、式を満喫出来ました。式次第がかなりよく見渡せる位置でしたのでありがたかったです。それでも時々は、大型の中継用TVカメラが移動台車ごと参道横を移動しながら中継の映像撮影しているのが、眼の隅に入り気になりましたが、止むをえませんでした。左右のスクリーンも大きく鮮明な映像で、自分の観る位置とは違った角度からの拡大映像でしたので、常時画面と見比べながら拝観していました。隣りや後ろの席の夫婦二人連れなどに声をかけられて、いろいろお話しをする機会もありました。参列の皆さんは「平服で」とのお寺からの案内とはいえ、高齢の方は着飾った女性も多く、男性もスーツ姿が多く、自分がいつものジーンズ姿であることが気になるほどでした。
ある寺僧からの情報で、延暦寺法要かあるいは結願に、橋本麻里女史あるいは山本勉教授ほかの大学の先生方が招かれているのではないか、とのお話しでした。確かにそう云われてみると、幾人かの方が何処かでお話しを伺ったりしたことがあるような男性を、見かけたように思いこんでしまいます。
11日の法要最終日・結願については「法華経寿量品講讃法要 興福寺厳修」と銘打って行われたのですが、途中天気予報通りの降雨となってしまいました。傘はさせないので、入場時に配られたビニールポンチョを被っての参列です。風が吹いていなかったのがせめてもの慰めでしたが、着飾って参列された方々には困った雨でした。私は昨日の場所取りが成功したので、一応降雨にもかかわらず、同じ位置に席を確保出来ました。雨のため前日とは異なり、式次第はすべて中金堂廻廊及び内陣でおこなうこととなり、次第の様子は屋外設置の2面の大型スクリーン映像を見ることとなり、結願の最後の法要が興味半減でした。献茶も表千家の家元ということでしたが、内陣での作法はスクリーンを通してしか伺うことが出来ませんでした。法隆寺管主・大野玄妙師からも咒願文の朗読があり、舞楽も正面舞台が使えないので廻廊正面での舞いとなり、よく観えないこともあってあまり感激が湧きません。前半(振鉾三節)、後半(蘭陵王)と分けて行なわれ、昨年春の山形・慈恩寺舞楽を思い出しました。同じような色鮮やかな金糸の輝く文様の細かい豪華な衣装が眼に鮮やかでした。献曲も10人ほどの楽団による、ロッシーニ作曲のバロック演奏の流麗なもので清々しい気分になりました。散華は屋根頂上部の鴟尾の横から23回位行なわれ、その都度観客からどよめきが聞こえました。前日の延暦寺の法要時には2回の散華がありました。「講問」は門者として文化講座でも講義をしたことのある「ザイレ暁映」師で多川貫首とのやり取りが行われました。新調されたという問答の台「論議台」にのぼることはこのような晴れがましい舞台で、さぞ緊張の連続だったことでしょうが、若い彼は落ち着いて澄み渡った声音で師への問いかけをしていました。盛り沢山の行事が続き時間を忘れてしまうほどで、2時間を超える法要となりました。
勿論主役は多川貫首であり、会奉行は辻明俊師が勤められていました。来賓の中にはアナウンスによって里中満智子女史など幾人かの名前を聞くことが出来ました。それでも式が後半になった時点で雨も止み、青空も顔を出してくれました。式次第最後の多川貫首の挨拶では、「幾たびかの兵火、災害に見舞われた興福寺の歴史は、七転び八起きでその都度再建されてきたが、信仰の動線の中心となる「金堂」が無かった。いままで縁者からも指摘されてきたが、ここに中金堂が完成して信仰の動線が出来た。法要が終わった明日からは動線のスタート、動線を創っていく行動を起こす。會津八一興福寺について詠った『はる きぬ と いま か もろびと ゆき かへり ほとけ の には に はな さく らし も』という歌(現在興福寺本坊前に歌碑が立っている)に詠われた「仏の庭」という「天平文化空間」の再構築である伽藍境内を創っていく決意で、祈りを続けることが行動だ」というような挨拶で締め括られました。因みに司会は、2日間共に同じNHK奈良放送局の女性キャスターでした。土産の一つの「散華」は題字・絵共に畑中光亮氏の手になるものでした。中金堂内の「法相柱」の14祖師画像を書かれた画家で、これまでにも展覧会を開催したりしています。結願終了後の中金堂内陣拝観は中止となり、廻廊からの拝観に変更になりました。それでも参列者の多くが拝観の行列を作っていました。私も隣の席だった高齢の名古屋からみえたという女性の荷物を持って、一緒にゆっくりと堂内を外陣から並んで拝観していきました。参列の皆さんも雨に濡れ、ポンチョから雨しずくが落ちる悪い条件にもかかわらず、熱心に拝観されているのに感心しました。隣席の女性とは会場出口の記念品受取りテントのところでお別れしました。薄い白雲が頭上を蔽っていましたが、法要途中の降雨が嘘のように明るくなり気分がよくなりました。 
 
 
澤田瞳子著「龍華記」の発売
興福寺の機関誌「興福」に執筆中ということで掲載されていた、作家「澤田瞳子」女史の最新作『龍華記』(りゅうかき)が9月末日に出版されました。過日ブログにも紹介したかと思いますが、南都焼き討ちに遭遇した僧兵や仏師運慶の周りに起こることに彼らがどう向き合うのか? 「満つる月の如し」、「若冲」、「火定」以後久しく眼にしていなかった、私の好きな作家のひとりである彼女の最新作です。
角川書店刊、1,700円+税 出版案内:  
KADOKAWA出版案内: 
 
 
なお、「サークルスクエア」は、しばらく使用していなかったせいかアクセス出来ず、パスワードだか何かが必要のようですが、覚えていなくて利用できませんので、上記資料などが送れませんでしたので、このようなメールになってしまいました。
 
20181012日 PM1100   Tak