孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

美術史 お手上げでした。どなたか御教授くださいm(__)m、草案で終わってます!

完結していない 草案で、恥かきですが、 御教授のお願いを思い、掲載してみます。

以前の記事で、長承和様式とは何なのかということを、yahoo知恵袋に問い・・・、せきどよしお氏が、平安時代前期彫刻を理解するためのキーワードと考えるとよいと思います。との回答を貰いました。 

それをもとに 承和様式なるを勉強してみたくなり、自習してみました。

 彫刻史で平安時代前期というと、8世紀末から10世紀前半を指すことが多いようです。150年くらいのさですので、長期です。木彫(一木造)中心ですが、像の様式ははなはだ多様です。
 平安前期の初期、神護寺薬師如来像、宝菩提院の菩薩像、新薬師寺薬師如来像といった非常に個性の強い仏像がつくられました。こののち、仏像彫刻の様式はまとまりを見せながら承和の頃(830年代~40年代)を迎えます。
 承和年間につくられた仏像の代表格は何と言っても空海の構想になる東寺講堂の諸像でしょう。これらはこの時代の特徴である中国の影響を強く受けるとともに、奈良時代の官営工房の流れも引き継ぎ、個々の造形としても群像としてのまとまりにもすぐれています。
 以後この流れを汲む像が変容をとげながらもいくつもつくられていきます。その一方で、天台系の造像や地方的要素の濃い仏像などさまざまな流れを合わせつつ、880年代になると仁和寺阿弥陀三尊像のように和様の様式があらわれて、やがて次代、すなわち平安時代後期彫刻へとつながっていきます。
 多様な平安時代前期の仏像の広がりと流れを理解を、このように大づかみにとらえ、その理解の鍵となる時期と様式を承和年中に求めた、それが承和様式という言葉と考えるとよいのではないでしょうか。



以上の教示を得まして、先のブログ記事「仏像の基礎勉強会」用の草稿 「平安初期の仏像 その1」  2016/1/17(日) 午後 8:30 の続きとしての纏めを考察します。
 

せきど氏に依りますと、平安前期の先端は神護寺薬師如来像、宝菩提院の菩薩像、新薬師寺薬師如来像といった非常に個性の強い仏像達です。との解説でした。


別の解説 日本の仏像様式の変遷 - niftyhomepage3.nifty.com/chigakubu/sousaku/maya/youshiki.htm では、この時代の仏像はこの密教の経典に基づいて造られた「密教派」、また、この時代に唐突に出現した「革新派」、そして前時代からの系統を受け継いでいた「保守派」の三派に分類される。その後、この三派は三つの系統それぞれの特徴を併せ持つ「中道派」に一本化され、和様彫刻の原型となる。と分類解説しており
密教派…体躯は豊満な肉付け、水平で切れ長の目、小さくまとめられた鼻と口などが特徴。多面多臂の像が多い。
•革新派…厳しい顔立ち、一木彫成像、デザイン的な衣文の多用(翻波式衣文)、肉付きがよく、強調される部分もある体躯などが特徴である。
•保守派…天平時代からの技法(乾漆系木彫像)を受け継ぎ、像容も面相が穏やかで写実的なところが天平時代の仏像と共通している。
•数としては密教系の仏像が多く、明王像に代表される多面多臂の像が増える。
•造仏技法はコストの高さなどから天平以来の乾漆系の仏像が敬遠されだし、一木彫成像が主流になる。
【基準作例】
 密教派…観心寺如意輪観音像・神護寺多宝塔五大虚空蔵菩薩像・
革新派…新薬師寺薬師如来坐像神護寺薬師如来立像・元興寺薬師如来立像
 保守派…広隆寺講堂阿弥陀如来坐像・唐招提寺千手観音立像
と在ります。
あまりにも作例数が少ないので、著名像をもっと上げてみたいと思いました。しかるに 平安初期の仏像の年表は意外と検索できませんでした。ネット検索で見つけたものは『時代別仏像制作年表:仏像と仏師の世界』
www.butuzo.com/chronology/index.html から平安初期の年表が見つかりましたが年代の明確なものだけにした勢で、存外に少なく成っていので、我らのテキスト『日本仏像史』付録の年表で、不足分を補ってみました。区別の為『日本仏像史』付録の年表により付加したものには、区別の為に あえて元号を外しました。
そして、【密教派】・【革新派】・ 【保守派】 と分けられるものを仏像名の後に付加してみました。知識不足で、誤謬もあると思います、どうぞご指摘願います。
存外仏像の年表・製作時期の記入、は少なくて苦労しました。
791            興福寺(北円堂)四天王立像  【木心乾漆像】
8世紀末  神護寺 薬師如来立像 【革新派】
    〃          新薬師寺 薬師如来坐像 【革新派】

794延暦13 平安京に遷都

801以前      法華寺 維摩居士坐像 【木心乾漆像】
8世紀末
~9世紀初 宝菩提院 菩薩半跏像 【革新派】
 〃      奈良・霊山寺 十一面観音菩薩立像 【革新派】
9世紀初       興福寺東金堂 四天王立像広隆寺 阿弥陀如来坐像
 〃          元興寺 薬師如来立像 【革新派】
 〃    道明寺 十一面観音菩薩立像 【革新派】
 〃    東大寺 弥勒如来坐像 【革新派】
796~815   唐招提寺金堂 薬師如来立像 【保守派】
813以前  広隆寺 不空羂索観音立像 【革新派】
839承和6 教王護国寺(東寺)諸像開眼  【密教派】
 
840承和7 広隆寺 阿弥陀如来坐像 【保守派】
     〃              観心寺 如意輪観音坐像 【密教派】
845以前   神護寺 五大虚空蔵菩薩坐像 【密教派】
  〃     法華寺 十一面観音菩薩立像 【革新派】
9世紀中頃 延暦寺 千手観音菩薩立像 【革新派】
  〃  向源寺 十一面観音菩薩立像 【革新派】
  〃   山形・宝積院 十一面観音菩薩立像
859貞観1 京都・安祥寺 五智如来坐像 【密教派】
862 以前     広隆寺(講堂) 地蔵菩薩立像、虚空蔵菩薩坐像
862貞観4 黒石寺 薬師如来坐像
 
867貞観9 教王護国寺(御影堂) 不動明王坐像 【密教派】
873 以前  広隆寺 千手観音菩薩立像、聖観音菩薩立像
9世紀後半  京都・勝持寺 薬師如来坐像
9世紀後半  海住山寺 十一面観音菩薩立像
9世紀後半  道成寺 千手面観音菩薩立像
883 以前    観心寺 宝生如来弥勒菩薩)坐像
                     〃       ・弥勒如来仏眼仏母如来)坐像
887仁和3 金剛峯寺(西塔)大日如来坐像【密教派】
888仁和4 仁和寺 阿弥陀三尊像
892寛平4 和歌山・慈尊院弥勒仏坐像
 
894寛平6 遣唐使が廃止される
 
896寛平8 京都・棲霞寺(清涼寺の前身)阿弥陀三尊像
 

途中で分類作業をい一時止めます。上の解説文で分かった気がして、安易にその次代の仏像達を 【密教派】・【革新派】・ 【保守派】と容易に分けられるものと思いましたが・・・やり始めてみると、どっこい簡単では無かったのです。自分の能力の無さが原因かもですが・・・、

明日の勉強会用にと、始めてみましたが 付け焼刃で出来るものでは無い様です。 小生の知識不足で、上の解説を咀嚼して自分のものに未だできていないようです。 明日の勉強会用としては間に合いませんが、改めて勉強し直し、作業を続けてみたく思います。
どなたかお教えくだされば幸いです。


少し時間がありましたので、も一度、考えてみますと、
前段の解説文の両者を踏まえて・・・そのどれがどの様な系統に当たるのかを考えてみますと、神護寺薬師如来像は、革新派と呼ばれるグループに入って居ます。同グループには、他に新薬師寺薬師如来坐像元興寺薬師如来立像が入れられて居ます。 その特徴は、厳しい顔立ち、一木彫成像、デザイン的な衣文の多用(翻波式衣文)、肉付きがよく、強調される部分もある体躯などが特徴である。とされて居ます。 同グループは、厳しいまなざし、太い鼻筋と肉付きよい小鼻、思い切って突き出しへの字に引き締めた唇。拝するものに畏怖の念を起こさせるこのような異相は禁欲的な山岳修行者の存在が生み出したものかもしれない。山岳修行から 自然崇拝、神木、霊木が繋がり、 其の為に 使用される樹そのもの価値に重きを置くために、一木造り、内繰りを良しとせず、木から彫りだすに意味を見出すので、素木造りで、漆で塗りこめず。木の香りを生かす造像です。これは亦 鉈彫りの思想に通じるといえると思います。また奈良時代末の唐招提寺 旧講堂仏像群の栢材(榧)に寄る代用壇像の信仰に類するように思います。
しかし何と言っても、神護寺薬師如来像は異様な厳しさです。以前はこの像の厳しさは、和気清麻呂側の道鏡からの呪詛反射の意味関係の、厳しさや怖さと認識していたが、昔受講した講座で、神護寺の場所が山城と丹波の国境というこの場所当たあたり、「境」という特別な認識(異界の重なる畏れのある域であり、)畏れと蔑視の入り混じったものの排斥の出口でもあり、また災厄をもたらす「けがれ」の進入を防ぐ防御線と意識され、重要な祭祀の場であった。ここはまた、神祇の厄病封じ「疫神祭」が行われた(この疫が薬師へと繋がる)ある意味「穢れ」の地であり、仏道の道場として相応しくない為に「類聚国史」などに神願寺と高雄寺の寺地の交換をしたとあるが、その意味が判然としない。自己の罪を仏に懺悔し、祈願成就しようとする「薬師悔過」も「境」意識と連動するもので、この二者が厄病を封じ,境の内に秩序を保つという同じ目的を持つ為に、8世紀中頃の薬師悔過では、併せ国境での疫神祭を行うようにと、政府が国司に指示している。悔過・疫神そのような事で、この薬師は厳しい容姿をすると定義付けもあった。( 「仏像趣味仲間と勉強会をしました。7時間」でネット検索するとこの事を書いた2011年05月31日16:49の複写記事が出て来ます)
 
後日に、続けて【保守派】【密教派】も勉強して 何とか理解して自分のモノにしたく思います。今日はここまでと致します。

自分の勉強がどうなりますか疑問では在りますが・・・、締めワードを、一応は「続く」としておきます。どなたか宜しく 御教授願えませんか?

                             【終】





追】コメントが開けない方が在るとの事ですので・・・、編集機能を活用して、本文末尾に コメントを転載します。


コメント①
承和様式とは、基本は東寺の立体曼荼羅像を言います。その影響を受けた空海の弟子たちが作った像及び同じ仏師が作ったと思われる像を言います。非常に短い期間です。仏像に真言密教の経典が写されています。仏像の最後は向源寺の十一面が最後です。その後は、影響を受けて、承和様式の雰囲気を残して、和様化していく、端境期があります。代表は仁和寺阿弥陀三尊です。この期間の像の分類が難しいです。私は、何時の時代もこの端境期があります。端境期は端境期として分類して、人には話してます。判りやすいです。せきどさんは、端境期も承和様式に入れてます。
素人に仏像美術史を教える場合は、専門の美術史書を使うのでは無く、歴史(殆どは天皇の歴史と政治権力)と信仰をベースに、国宝級の仏像のみで、編纂します。これが小学校レベルです。中学校は、有名な重文仏像を付け加えて行きます。自分が判っていないと、難しいモノを10分の一に、省略して話せません。難しいモノを難しく言うなら、本を読みなさいと言っているだけです。削除
2016/2/6(土) 午後 0:57[ 真如さんの仏像めぐり記 ]


コメント②
> 真如さんの仏像めぐり記さん
懇切なコメント有難うございました。 コメントを頂きながら 見落としていてお礼が大変に遅れ申し訳ありませんでした。
平安初期の真言密教の経典が写されているを承和様式と云うのですね!ほかの系統の同時期の仏像は入らないとの明解で溜飲が下がりました。最後のご助言は、当ブログをお読み頂き、寄稿文の転載分を指されたのかなと思いました。
著名仏像殻を歴史と信仰を踏まえて云々は、 比較に成らぬレベルの違いながら、賛同の思いです。

先生のコメントを頂き、解らないとのみっともない形ながら、拙文を公開して良かったと思いました。

勉強させて頂きたくて[ 真如さんの仏像めぐり記 ]でネット検索しましたが、どれが其れなのか分からない始末です。 貴ウエブへのキーワードをお教え頂けませんか?削除
2016/2/15(月) 午前 0:00[ 孤思庵 ]