孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

Takさんからのおたより 2020年2月15日

 

  • 大津市歴史博物館「れきはく講座」(近年発見された快慶工房の作例について)を聴講して:

2月1日(土)大津市歴史博物館、講師・寺島典人大津歴博学芸員

『運慶と並び、鎌倉時代を代表する仏師、快慶。ところが、運慶とは比較にならないほど、現存作例が多く確認されていて、どうやらちょっと運慶とは造像環境が違っていたようです。近年、さらに快慶工房の作例が発見され、興味深い事柄が分かりつつあります。それらの紹介をしながら、鎌倉初期の快慶工房の様子を垣間見てみたいと思います。』(れきはく講座案内より)

三井寺から歴博に向かうと、周囲は自家用車がいつになく多く路上駐車しており何事かといぶかしく思ったが、歴博の2階奥の展示室で「新年書初め展覧会」が開かれており小中学校の生徒や家族が大勢で押しかけて来ており、表彰もされているようで、館内はすごくにぎわっていました。それでも正午を過ぎると騒ぎも落ち着いてきて、私もロビーでのんびり本を読む余裕が出来ました。顔馴染みとなった歴博女性職員は私の顔を見かけただけで、歴博カードの提示をしなくても展示室への案内をしてくれるようになりました。伺うと歴博のメンバーになっている人たちはほとんどが地元の方々で、遠方から来館してくれるお客様はすぐ覚えるということでした。私から尋ねなくても「今日は鯨井学芸員は休暇です」などと声をかけられました。講座の会場はいつものライティングデスクで天板が邪魔で腰掛けにくい感じだったのですが、先に入場した方の様子を見ていて今回初めて分かりました。天板はヒンジが付いていて片方を上に挙げることで楽に腰かけることが出来ました。今までの苦労は何だったのか?

寺島典人学芸員の講義内容は大略以下の通りでした。

1. 快慶基礎知識

・快慶の仏師関係系図、・快慶造像銘記、・快慶弟子関係と実存作例、作例の願主と宗教団体の関係、・現存作例や古文書記録から所在地分布、・快慶工房の推定所在地、近江地域での大寺院での造像工房(派別)の振り分け、

2. 快慶の造像上のくせ、こだわり

・耳環・耳朶、・裙(裳)のあわせ位置、・安阿弥様阿弥陀如来立像の着衣表現、・後半の作例に独特の歩行表現、造像銘記の変遷

3. 近年発見の快慶工房の作例

・快慶37番目の作例(2009年):京都・泉涌寺悲田院 宝冠阿弥陀如来坐像(墨書銘による確認)

・快慶38番目の作例(2011年):和歌山県高野町金剛峯寺 執金剛神立像・深沙大将立像(墨書銘)

・快慶39番目の作例(2015年):三重県松阪市安楽寺 阿弥陀如来立像(墨書銘)+地蔵菩薩立像(墨書銘なし)

・行快7番目の作例(2010年):大阪河内長野市金剛寺 不動明王座像

・行快8番目の作例(2011年):滋賀県大津市西教寺 阿弥陀如来立像及び脇侍像

・行快9番目の作例(2012年):滋賀県長浜市・浄信寺 阿弥陀如来立像

・行快10番目の作例(2018年):京都市・聞名寺 阿弥陀如来立像及び脇侍像

4. 立像の立ち姿の工法上の工夫

5. 安楽寺像、聞名寺像の各部位詳細画像説明

6. 快慶の「追分如来」(笈分如来、負分如来)逸話について

仙台市泉区阿弥陀堂京都市五条下寺町蓮光寺の2寺院、13世紀前半の3尺阿弥陀如来立像

*特に阿弥陀如来立像の裙裾のあわせについては、以前聞名寺の作例の件で足枘とともに報告をした際に前か後かということを伺ったことがありましたが、私もお話しを伺った後にはこれまで注意をして眼を凝らして裙裾をジックリ拝してもなかなか判断がつかない仏さまが多いようです。たしか私が「快慶の裙裾のあわせ」についてお話しを伺った時に、整理して足枘の違いとともに集いの会に報告をした覚えがありました。

 

  • 大津市歴史博物館「れきはく講座」(古墳時代の終焉 大津の後期・終末期古墳)を聴講して:

2月8日(土)大津市歴史博物館、講師・福庭万里子大津歴博学芸員

古墳時代の後期、6世紀になると、古墳の規模は小さくなる一方、その数が一気に増えていきます。しかし、その後7~8世紀初めには造られる古墳の数が減り、古墳時代も終わりを迎えます。大津市内の後期古墳群(和邇・真野・堅田の古墳群や坂本から錦織までの渡来系の古墳群など)、そして数少ない終末期古墳(瀬田の若松神社境内古墳や横尾山古墳群など)を紹介しながら、大津の古墳時代の終焉をみていきます。』(れきはく講座案内より)

参考文献:「企画展 大津の郁と白鳳寺院―大津京遷都一三五〇年記念―」(2019年10月開催図録、福庭万里子)と「渡来した人々の足跡―大津の古墳群と集落跡―」(2016年8月、文化庁主催・全国巡廻展示「発掘された日本列島2016」、福庭万里子)

事前に眼を通して行きましたが、やはり講座聴講ナシでは理解できない事ばかりでした。今回の講座の中心は大津市域に数多くある古墳群の特徴と墳墓の形状の変化や副葬品の時代による推移など、よくぞこれほどに狭い地域に集中している史跡を発掘調査・解明されてきたものと感心しました。大津市内の坂本から錦織までのさして広くない地域に隣あって密集した古墳群があり、しかも同時代史跡は広く点在しているという複雑な多くの史跡がある特殊な地域のようです。それも中央(畿内、大和、難波)からの伝播とともに、土着・渡来の帰化人の史蹟とが混在しているようです。そして知ったのは大半が山麓、山中、谷あいなどの地理的にあまり適していないような場所に存在すること、古墳群に埋葬される人々の僧が拡大していったこと、同じ横穴式古墳群でも「石室」の石材の組み立て方などの変化、副葬品も須恵器や土師器の土器類、耳環(じかん)、かんざし、釧(くん)などの生活品、装飾品がほとんどで、武具や馬具など武人の存在を象徴するようなものがほとんど見られないということです。そして私が初めて知ったのは、多くの石室の中にミニチュアサイズのカマドのセット(ミニチュア炊飯具、カマド、カマ、コシキ、ナベの4点セット)の副葬品があったことです。そして「土器棺」、「陶棺」も珍しい話しでした。発掘調査では大きな遺跡・遺構の中には「床暖房施設・オンドル」とみられる遺構も見つかっています。このように古墳群や集落跡には半島渡来人の生活を偲ばせるもので、この地域の渡来人の生活が分かるものです。

 

  • 奈良・薬師寺の拝観、講座聴講して:

2月7日(金)薬師寺慈恩殿・薬師寺東塔大修理落慶記念講座(薬師寺復興について) 講師・大谷徹奘・執事長

薬師寺HP:    https://yakushiji.or.jp/

『680年、天武天皇の発願により飛鳥、藤原京に造営され、平城遷都とともに今の西ノ京の地に移転した薬師寺。1300年の歴史の中で天災や人災により「竜宮造り」と呼ばれた壮麗な伽藍が消失しました。1968年以降の写経勧進により金堂、西塔、中門・回廊、大講堂、食堂が次々に再建されてきた薬師寺白鳳伽藍復興の軌跡について、今春の国宝東塔大修理落慶を記念し、これまでの道のりや思いを法相宗大本山薬師寺執事長の大谷徹奘師からお話をうかがいます。今回は元総理大臣の細川護熙(もりひろ)氏が2013年から構想を練り、昨年2019年に奉納された障壁画のある薬師寺慈恩殿を特別にお借りしての講座です。この機会に是非ご参加ください。』(参加募集しおりより)

午前8時に京都駅に到着。近鉄に乗りまっすぐに「西ノ京」駅へ向かいました。ただでさえ狭い駅前はすぐに踏切があり往来の自動車が多く混雑はしていましたが、観光客は全くというほどに姿を見かけませんでした。最初に「玄奘三蔵院伽藍」方面に向かい、伽藍の奥に建つ今日の講座会場である「慈恩殿」を確認してから、本坊近くの梅樹の多くの紅白の咲き始めた花を愛でてから「白鳳伽藍」境内に向かいました。お寺の拝観料は本日の講座の案内状を見せるだけ。すぐに「東僧坊」の薬師如来須弥壇模造を確認して、売店の男性職員としばしの歓談。「今日は拝観客・観光客はまだお見えでない」 というショックな話しがありました。私が一番くらいに早くの拝観客だそうです。そこで眼についたのが売店の土産物の隅の刊行物の中に「行基菩薩」の小冊子を発見しました。

 

私が手にしたのは「行基菩薩」(千二百五十年御遠忌記念誌)で、B5版の100ページほどの紙厚の厚い冊子で掲載画像はすべてカラー画像という贅沢さで、最初はなぜこの冊子が薬師寺に置かれているのか?と訝しがったのだが冊子の最終ページの「奥付」に冊子発行事務局「行基菩薩ゆかりの寺院・事務局」が薬師寺となっていたことから合点しました。奥付の前のぺージには「行基菩薩千二百五十年御遠忌法要実行委員会」として、霊山寺、家原寺、薬師寺西大寺東大寺元興寺浄瑠璃寺、長弓寺などで構成される委員会組織が活動されて、法要が平成10年11月7日(土)に執り行われたようで、その際に発行されたのが記念誌だそうで、内容は私の期待以上のものでした。行基菩薩の生涯と活動、「道昭和上と行基」、「瑜伽師地論と成唯識論」、「行基四十九院」、「大仏造営勧進」、「行基墓所竹林寺」、「律令制と庶民の税負担」、「東大寺四聖御影の讃」、「行基菩薩墓誌破片」など細かい文字で誌面いっぱいに掲載されており、この冊子を読んでから昨年11月の「東大寺グレイトブッダシンポジウム」を聴講すればよりよく理解できたのでしょう。

私が以前薬師寺を訪れた時には、しばしば近鉄線を渡ってしばらく先の住宅地の灌漑池の「大池」に出掛けて「東塔」、「西塔」、「金堂」の堂塔伽藍が大池を手前にして綺麗に望める好適地を巡ったものです。今回はまだ東塔がクレーンと背の高さを競っている工事中の時期なので、数か月して東塔落慶以降にまた大池に脚を伸ばしてみようかと思います。

売店の方々とは會津八一の歌碑(西塔横にある)の話しで盛り上がる。その後は鐘腹に亀裂の残る鐘を吊り下げる鐘楼を観てしばし大型クレーンの設置された足場の組まれフェンスで囲われた工事中の「東塔」、「金堂」を挟んで奥に「西塔」を望んでしばしの撮影タイム。さっそく西塔横の「會津八一歌碑」と横に並ぶ「佐々木信綱歌碑」を拝観し撮影三昧となる。昔は各々各塔の横に分かれて建っていたのだと思うが、あるいはどちらかの歌碑が無かったのか、東塔工事のために信綱歌碑を移設したのか?その逆だったか?でも二つ並んだ歌碑も結構なもの。特に會津八一の歌碑に使われている石材は全体に青緑がかった色の石材で、何処の産の石材か知りたいと思いました。信綱歌碑の四角い形状とは異なり、自然採掘したもので趣がある。境内は広く遮るものが無いこともあり、強い風に身体が冷えるのが辛く早くお堂に入ろうと思いました。早朝と云うこともあるせいかまず寺院関係者や東塔工事の業者の方々の姿だけで、拝観客・観光客の姿はまず見かけません。まして歌碑の場所などは全く誰も立寄らないのでしょう。

 

佐佐木信綱:ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なるひとひらの雲

會津八一: すゐえんの あまつをとめが ころもでの ひまにもすめる あきのそらかな

 

「金堂」堂内の「薬師三尊像(国宝、白鳳~天平時代)は、大きな金堂堂内伽藍に正面に大きく開いた9間の柱間連子窓と交互の扉が観音開きになり、朝の陽ざしを目いっぱいに取り込んでおりこれ以上の明るさはないだろうという風景です。須弥壇上の三尊は厳かな佇まいで私がその昔に数度拝観した時と同じ様に待って下さっていたようだ。それでも当時を思い出してみても、何故か一回りくらいこじんまりとした感じがしたり、両脇侍像の天衣の脇側と外側の垂下部分や、両肩を廻り込む背中側の衣が欠けていること、「月光菩薩像」の頭上中央頭飾が欠けていることなど些細なところが受ける感じを減じているかの様な気持ちにさせるのはなぜだろうか?それでも各像共に黒光りする肌の張り詰めた緊張感はやはりただものではない雰囲気がさすがです。私の余計な感想は省略します。

「大講堂」は金堂より大規模な建物で古代伽藍の原則に則ったものだそうですが、何しろ真新しい建築物で堂内の天井や天蓋などの豪華華美な面が眼につき創建当時は康だったのか、と思い廻らしなあまり感慨が湧きません。堂内の「弥勒三尊像」(重文、白鳳時代)は最近の調査により白鳳時代の創建時の仏さまと描くにい出来たそうです。西院弥勒堂本尊の安置から一時薬師三尊として旧講堂に移安されされたが、平成の復興調査にあわせて弥勒三尊として大講堂に安置されたと云うことです。本尊向かって右側に「法苑林菩薩立像」、左側に「大妙相菩薩立像」のの脇侍が並び立ち、その間に「阿僧伽」(アサンガ・無着)、「伐蘇畔度」(ヴァスバンドゥ・世親)のインド僧兄弟の立像の姿が拝せられます。しかし興福寺北円堂の両像とは似ても似つかない痩身、肋骨の浮き出た胸部、薄地の僧衣、どう見ても貧相なお顔と、両人のイメージとは全く違う姿です。これは北円堂の両像のイメージが強すぎるのでしょう。 

 

「慈恩殿」の前に到着したら数人の聴講の方が既にお待ちで、事務局が準備終了後靴を脱いでお堂内に案内されました。大きな広間で正面に仏壇が一面に広がり、畳敷きの広間には折りたたみいすが並びます。事務局の方に聞くと約50名ほどの参加だそうです。堂内の壁面や襖面には色とりどりの彩色の数多くの天女や中国風の衣装を着た遊興する男女の姿や動物の障壁画が綺麗な空間を形造っています。これは「細川護煕」元首相が2013年から構想を練り2019年の慈恩殿に奉納された障壁画「画題・東と西の融合」で、2019年夏には細川護煕氏が公開に際して挨拶・説明をされたそうです。真新しい仏の姿を四周に廻らした広間は綺麗としか言えません。

講師は昨年12月に大手町よみうりホールで開催された「奈良楽講座」(薬師寺東塔を掘る)で、國學院大學・青木敬准教授による講義とチェリスト・西山牧人氏(奈良高校卒、東京芸大大学院卒、東京交響楽団チェロ主席奏者)のチェロ演奏とともに、薬師寺・大谷徹奘・執事長の法話があり私も出掛けたことがありました。その時にステージで大声で立て板に水の如くいろいろな話しをされた方が、今回の法話の講師・大谷徹奘師でした。大谷徹奘執事長はガッシリとした体躯で元気なお坊様で、大きな声で淀みなく多くの言葉が飛び出します。昨年秋の大手町の講座でも大きなステージを一人で左右に動き廻りながら、薬師寺の歴史やご自分の修業のこと、師として長いこと背中を見て活動してきたという「高田好胤」師の教えなどでしたが、今回も基本的には同じパターンでした。執事長が師事された「高田好胤」師は、戦後の荒廃を見て「大事なものは志し、師匠、仲間、金銭」と考え、その根拠が復興のための物質主義ではなく「物で栄えて心で滅ぶ」を信条に「写経」を多くの人々に行なってもらい全国を行脚して薬師寺伽藍を一つ一つ造り上げていくことを考え、特定のスポンサーを拠り所にせずに最後までそして師の死後も現在でも写経が寺の目玉にして信仰・慈善活動をおこなっているという。それでも経典のことや仏さまのことなど初めて耳にする話しもあり、それなりに充実した講座と感じました。私は参加者が慈恩殿を退出するまでの時間を、大谷執事長に挨拶と前回の東京での様子などしばらくお話しを伺うことが出来ました。

 

講義の後に、薬師寺中門建設より「西岡常一」棟梁に師事、現在は東塔解体修理に責任者として携わっている薬師寺宮大工兼薬師寺職員「石井浩司」氏をお呼びして、東塔修復についてのお話しを伺いあわせて講義会場に設えた木材の切削作業の実演を披露していただきました。『塔組は木のくせ組』という西岡常一棟梁の掛け軸が掛かる前で、石井氏の古代寺院の修理・解体の難しさ、前時代の修復の跡を見て学習(1300年前の大工の建築作業は造作が汚い=古代の建築道具は十分でなかったからで、渡来人のおかげで古代寺院は遺った)する気概、宮大工棟梁として大勢の工人の組織化など経験に基づいた緻密な作業が積み重なって来た大工職人人生だったとおっしゃる。そして50㎝角×3mほどのヒノキ角材を前後の台で固定して普段使っているご自分の「手斧」(ちょうな)、「槍鉋」(やりがんな)で、木材の横からあるいは木材に半身に腰をかけたりして、木材の切削方法を私たちの眼の前で実演して下さいました。削られた木っ端は綺麗に長く渦巻いて鉋の刃先からくるくる回りながら切れ落ちます。参加した皆さんは退場時にこの木っ端(手に取っただけですごく香りが匂いたつ)を幾つも持ち帰っていました。その後大谷執事長の案内で白鳳伽藍内の「東僧坊」内に展示してある「薬師如来坐像の台座模造、「東塔」心木の輪切り材の説明、そして金堂堂内に入り「薬師如来坐像及び日光菩薩月光菩薩像」の須弥壇上に上り、参加者のために般若心経を詠じ、参加者の健康と多幸を祈ってくださいました。

冬の陽は既に西塔の奥に傾き、薄暗く風の強い境内に出て解散となりました。

帰りは近鉄西ノ京駅」前から「春日大社行」の路線バスでJR奈良駅までガラガラの車内でのんびりと帰りました。西日が山並みのスカイラインに沿って鮮明で輝いてすごく綺麗で、私の眼に焼き付きました。

 

展覧会開催案内:  https://www.narahaku.go.jp/exhibition/2020toku/bishamon/bishamon.pdf

2月12日(水) 奈良国立博物館 14:30~16:30 講義(岩田茂樹学芸員)+観覧

早朝の京都駅も普段に比べて心持ち空いている感じ、近鉄急行もガラガラ。天気は良くて雲一つない青空を見上げながらも、奈良駅地下コンコースも駅前広場の行基菩薩像の噴水広場も東向商店街も、普段の早朝に比べてウソみたいにガラガラ閑散として人けがありません。こんなガラガラの商店街などは初めての経験だ。いつもの経路の興福寺北円堂から興福寺境内、奈良公園、奈良博まで本当にガラガラ。観光客がどこかに隠れているのかと思うほどに薄気味が悪いほどに閑散としている。これも中共の所為だから憤慨だ。近年の日本(韓国はもっとそうだが)は、経済面で中共一辺倒・超依存症のところが災いしたもので、観光のみならず経済にまで影響しているのですが、中共にはまったくひどく迷惑をこうむっています。鹿までが食物の「シカせんべい」がもらえず少し寂しげな元気が無い様子です。

当初は「カミ展」オープン時に拝観し、その経験をもとに「特別鑑賞会」に参加する予定だったが、特別鑑賞会は夕方からなので午前中から夕方までの時間に展覧会を拝観してから特別鑑賞会に参加すれば時間を無駄にせずに効率的だということで、いつものように早朝から奈良博へ午前9時30分には数名の入館者と一緒に入館しました。展覧会の展示構成は、1.独尊の毘沙門天像、2.毘沙門三尊像、3.双身毘沙門天像、4.兜跋毘沙門天の順に展示されており拝観者に分かり易い展示のように考えているようです。

「如法寺・毘沙門天立像」入館すぐの仏さまです。そして日本国内における彫像としてはかなり古い製作の仏さまだそうです。この仏さまについては2018年10月に奈良博で個別に展示(正面及び側面の姿のみ)があり、発見者の岩田茂樹学芸員からは別途2019年2月に奈良博で詳細の説明があり私も拝聴しました。配布された資料に仏さまの背面の画像や彩色のカラー画像があり、感心したものです。また「MUSEUM」676号(2018-10月)に岩田学芸員によって詳しく解説されており、私も展示を実際に拝した後で講演会と研究誌で再認識することとなりました。実際の仏さまの背中姿は今回の拝観が初めてで、着衣の彩色とともに予想以上に得をした感じです。像高約30㎝程度ではあるが、短躯の像態からもっと大きく感じられる仏さまです。

「和歌山・道成寺像」は、幾度も拝した仏さまですが、口元がクシャとした感じで横顔は額から鼻筋までが見慣れている日本国内の仏さまの感じがありません。

「岐阜・華厳寺像」は一見して顔部の小さな像態が道成寺像とは違って大人の仏さま風ですが、顔付きは「連眉」(れんぴ、私は連眉の仏さまは木津地方のあるお寺でお逢いして以来です)で口元をへしゃげた今にも噴き出しそうな感じにも思えます。体躯は甲冑、鎧などの単純な意匠でありながらはち切れそうな重量感があり、運動感よりも重量感強調の仏さまだ。眼につくのは着衣の袖、裙、腹帯の彫りの深い凝った文様、袖や裙の背部の襞の彫りには「翻波式」様の衣文が著わされ、また渦巻き状裙の細かな工夫が見られ、漆黒のような全身からの迫力が感じられます。

「京都・弘源寺像」は、極端な顔・手足のポーズをあらわした個性的な仏さまで、像態から考えると本来は独尊ではなく四天王像として祀られたものかと思いました。彩色もかなりよく残っており特に私が以前から注目している文様彩色についてこの仏さまでも認められました。それは、「海住山寺・大仏殿様四天王像」、「霊山寺・大仏殿様四天王像」など奈良博・仏像館で拝した際に、甲冑下の着衣・裙の裾の裏地面、像の足元後ろ側のたなびく状態の場所に各々龍、酉、胸鰭の大きな魚(名称を忘れた)、植物文様が表わされているようで、奈良博で岩田茂樹学芸員及び山口隆学芸員に伺ったところ、規定に無いことから自由に習慣として文様として裏地面に描いているものと考えらえるそうです。この仏さまは像そのものが大きく見やすい感じで、両足中央の衣部分に龍身と思しき動物の姿、左足後ろの裙裾裏地面の植物文様風の両所共に彩色の綺麗に残る仏さまです。

「京都・誓願寺像」は、動きの少ない憤怒形にも乏しいおとなしめの仏さまですが、私がすぐに気になったのは頭上の髻の前に開花した頭飾(花冠?)の上に蓮華台上?に「宝珠」を頂いているのが分かりました。

「滋賀・高雄地蔵堂像」は、標準的な持物である「宝塔」を持たないで「戟」を持ち、右手は腰にあてがう形をしている。私が知る限りこれを「鞍馬寺毘沙門天像」というと教えられていましたのですぐ分かりました。後世に手を加えて綺麗にしたので全身に木肌・木目が顕われています。

「出雲・放光寺像」一見して極彩色に覆われた甲冑、着衣と背中側の肩から尻下までや籠手の「虎皮裙」文様、顔部は肌色で仏さまではなく人間の顔そのもの、全身にケバケバしい姿だ。兜が別材で作られており頭に被っている状態で、兜を脱がすと頭部は黒色の頭でまさに人間だ。腰部の表鎧にあらわされた墨書による孔雀羽根文様が気になったが、像横の説明板に「奈良・東大寺法華堂・執金剛神立像」に似た文様があるという説明だった。

「京都・泉屋博古館像」面白い仏さまに出会いました。まさに「願成就院像」に似た「東京藝術大学像」ともよく似た仏さまで、制作された時代的に「玉眼」、「邪鬼」も玉眼、そして驚いたのは腹部の「帯喰」の獅子の眼にも玉眼嵌入になっているのです。仏さまの正面に立っただけで腹が光るので何かなと思い眼を凝らして近ずいてみて玉眼だということが分かりました。

「奈良・常光寺像」「京都・清凉寺像」は大小と大きさは違うが各々左脚膝下を岩座の前に踏み下ろした坐像の姿です。特に清凉寺像は大きく漆箔や彩色が残り細かいところまでよく拝することが出来ます。

「高知・雪蹊寺三尊像」はお馴染みの湛慶作の像とともに「吉祥天像」、「善膩師童子立像」の三体が揃って拝観出来ます。鞍馬寺三尊像に比べて吉祥天像、善膩師童子立像は穏やかな様子で親しみが湧き、好きになれます。

京都・鞍馬寺三尊像」は、同じく二像とともに三体が横並びで雪蹊寺三尊像の向かいで拝観出来ます。像の大きさからも鞍馬寺像は3体ともに一回り大きく、体躯もガッシリとして重量感があります。しかし、私には「吉祥天像」、「善膩師童子立像」の2像がかなり昔の記憶と異なり骨太の姿が馴染まないものでした。また善膩師童子立像の「美豆良」(みずら)が耳かと勘違いするような位置に大きく付いて、顔も少年らしくない感じで近づきがたいものがありました。

「カウンティ美術館像」については、像高約2mと云うことで展示会場で一番大きいのではないか。キャプションによれば元は島根県・出雲寺所蔵と云うことが分かっており、三尊像として並んでいる古写真があるという。日本国内で制作されたとは思われないような像態で部位の隅々まで細かな荘厳細工と彫りの深さや、絢爛たる彩色の仏さまで武将像とは思えないほどです。頭部の兜には龍面のかざり、肩喰いや帯喰いの髭面の鬼顔や鎧各所に描かれた植物文様の盛り土顔料の細かい彩色や鎧の装飾的な華美な意匠は仏さま、特に武将像としての過剰なものと思えます。

「奈良・東大寺双身像」は、岩田茂樹学芸員の論文「MUSEUM」665号に眼を通して行った予備知識があったものの、やはり実際に姿を拝すると感動ものです。有名な八幡殿の「僧形八幡神像」の近くに建つ経庫でつい最近の2006年に発見されたということで、最新の仏さまなのです。口唇端から伸びたひも状の「牙」が奇異に感じましたので、今回はその牙の行方を仏さまの身体を辿ってみました。幸いに天衣などの荘厳は無くすっきりとした仏さまの左右体側腰部を凝視すると、やっぱりありました。牙の先を辿ると各々体側腰部に一本の牙がきちんと表されています。岩田論文には「阿娑縛抄」の「双身法」に毘沙門天の形相の特徴として「八牙相」を解いていて「牙上方指白下方長白牙」と云うことで長い牙を示している。講座後に伺ったところ画像・図像では散見する牙だが、彫像ではまだ他にはあまり確認が出来ていない作例のようだ。

「京都・浄瑠璃寺双身像」がもうひとつの彫像かもしれない。浄瑠璃寺像は「馬頭観音菩薩立像」の像内から多くの小さな菩薩像とともに発見されたそうで、像高10㎝足らずの小像ですが面白い姿で表・裏の体躯で合掌する腕の向きが上下(一方は胸前、もう一方は股間)で違う、同じような兜・鎧の表現は可愛いくらいで、注目点は東大寺像とともに口唇から「牙」が左右下方に伸びていることですが、体側腰部に注目しても東大寺像のようにはっきりと牙の存在を確認しようとしたが、天衣が残っているだけで牙を認めることが出来ませんでした。

第一会場から第二会場へ移動するところに「毘沙門天の源流を探る―インドからガンダーラ・西域へー」、「唐宋時代の毘沙門天像―王朝の守護神―」として説明パネルが壁に貼ってあります。この内容は図録にもある「宮治昭」龍谷大学名誉教授と「佐藤有希子」奈良女子大学准教授の論考と同じ様でした。なおお二人と岩田学芸員の公開講義が奈良博で行われる予定で、私も聴講をしたいものと考えています。

 

次は「兜跋毘沙門天像」というところですが、思いがけないことがあったので、「兜跋毘沙門天像」の展示作例の紹介は後刻報告あるいは中止します。

午後1時頃に第二会場へ中央の廊下を渡って説明パネルに眼を通した後で、第4章のコーナーで「東寺・兜跋毘沙門天像」のほかに目当ての「奈良・朝護孫子寺像」「岩手・浅井智福愛宕神社像」(鉈彫像)に向かった矢先で、展示会場入口で金沢文庫・瀬谷貴之主任学芸員にお会いしました。昨年のある展覧会の時に奈良博のスロープのところでお逢いして以来、奈良博では2度目の偶然です。過日は奈良博での仕事と云うことでしたが、今回は高齢のご夫妻と思しき2人連れの方をお連れして説明していました。コートを脱ぎ上着も脱ぎワイシャツとネクタイ姿で熱心に説明しているようでした。顔が逢ったので軽く会釈をしました。それで私は私のペースで拝観して行きましたが、後刻に私が「特別鑑賞会」に参加するために館内地下のレストラン横のレストコーナーでソファに腰かけて本を読んでいたら、ショップに立寄った帰りということで瀬谷氏がお二人と連れ立って通りました。そこで私は「奥様の講演会を聴講に伺うことと、文庫のリニューアルオープンの時期について期待している」ことを伝えました。文庫は工事の予定がまだ確定していないのでオープンの日時が決まらないそうです。

 

「特別鑑賞会」の講義と拝観について

午後4時に講堂前に集合し入場開始。午後4時30分から30~40分間で岩田茂樹主任研究員から展示作例の各々についてポイント、特徴、見逃せない部位や姿など面白可笑しくご教示頂きました。その後午後6時30分まで展示会場全体を開放して参加者約50名が銘々勝手に拝観して廻りました。講義後に参加者からの質問が無く解散となったので、私は会場に行く前に岩田研究員にMUSEUM誌の岩田研究員の論文を開いて「東大寺・双身毘沙門天立像」と「浄瑠璃寺・双身毘沙門天立像」の「牙」について伺いました。お話しを伺った後で会場へ急ぎましたがそれでも約1時間強はガラガラの会場でゆっくりと拝観出来ました。幾人かの鑑賞客の方と簡単な話しを交わしました。職員に伺ったところ、私は「特別鑑賞会」は初めてでしたが、奈良博では特別展開催の際にはほぼ必ずと言っていいほど、人数は少ないものの展覧会開催中にこうした「特別鑑賞会」を実施しているそうです。これから注意していましょう。

 

2020年2月15日 0:30  Tak

 

Takさんからのお便り 2020年2月5日

東大寺薬院」の「東大寺 薬湯」を頂いて:

知人から「東大寺 薬湯・天真」という品物を頂きました。この時期・冬には格好な
品物かもしれません。使用方法はお湯をはったバスタブに袋を入れて中の薬草などを
もみだすというもので、「冷え症、神経痛、腰痛、しもやけ、リウマチ」など多くの
症状に効果・効能があるとの説明があり、トウキ、センキュウ、オウバク、チンピな
どの成分表示も記されています。袋の後ろを見ると「財団法人 東大寺薬院」発売
元とあります。確かに東大寺は保育園から高等学校までの教育施設やリハビリなどの
療養所・医療施設なども併設・運用しており、「施薬院」という漢方などを中心とし
た医薬品や薬草なども扱っている部門も事業としているのです。「天真」は天真爛
漫?それとも岡倉天心

「薬湯 天真」の紹介サイト: 

 http://www.arainodendo.com/nikki/2017/10/post-23.html



●「大法輪」誌・2月号(87―2号)を立ち読みして:

大法輪・目次

https://www.fujisan.co.jp/product/1281680555/?utm_source=Criteo
<https://www.fujisan.co.jp/product/1281680555/?utm_source=Criteo&utm_medium=
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>
&utm_medium=remarketing&utm_campaign=1281680555

ビューワーを視る=最新号の試し読み=HTML5で開く

最寄書店店頭で、「目の眼」誌を手に取った時に隣の書棚にあった「大法輪」誌が目
に留まり、ついでに立ち読みをしてしまいました。本誌の特集は「徹底比較・真言
教と天台密教」とありました。目次を見ると『インド密教は中国を経て我が国へ伝わ
り、真言密教天台密教という二つの大輪の花を咲かせました。本特集では様々な切
り口で両者を比較し、その相違点と共通点を明らかにします。』とのコメントがつ
き、第一部:真言密教編、第二部:天台密教編、第三部:真言密教天台密教の違
い、と大きく分けて関係する宗教者や学者が各々の章・単元を受け持って執筆してい
ます。

後ろのページをめくると、「仏像を守る」第7章・興福寺 歴史の継承② 荒廃から
再興へ」興福寺執事兼境内管理室長・辻明俊師が数ページに亘っていろいろと興味深
い事柄を著しています。明治の「神仏判然令」、「寺社領上地令」時の混乱した事態
や、寺域、尊像の離散についてなど、現在に残るガラス乾版などの古写真が当時を知
らしめており、それからの尊像の修理、維持保存の努力の変遷から現在に至っている
ことの感慨を紹介しています。この件で昨年の「興福寺佛教文化講座」での山口隆
研究員の古写真発表がある。辻明俊師は、その残った写真の中で①弥勒菩薩立像・快
慶作・ボストン美術館蔵と②帝釈天立像・定慶作・根津美術館蔵を取り上げて、「快
慶展」で弥勒菩薩立像を拝した際のこと、現在は根津美術館蔵の帝釈天立像について
は写真では尊顔が失われていたが「新納忠之介」の修理?とその後梵天立像との離
散から、一昨年根津美術館での「再会」を果たしたことを紹介しています。また、当
時の荒廃した「金堂」は一時お寺の手を離れたことから堂内の須弥壇は撤去され、そ
の際に発掘された「鎮壇具」が国の持物になり現在は「東京国立博物館」蔵となって
いる。また、興福寺の伽藍、教学、仏像などの保存維持を熱心に推し進めた「多田仲
基」師と「朝倉景隆」師についても多くの事績を紹介しています。また、「岡倉覚三
(天心)」と「フェノロサ」が興福寺の調査を行なった時のことを記して、彼らの努
力により現在の「国宝、重要文化財」の指定に繋がっていることを著して、時代の絶
望の中から何とか文化財や教学、伽藍を残そうとした人々の先徳の遺徳を偲んでいま
す。この話しは次号に続くようですので期待しましょう。また立ち読みで・・・。



●「目の眼」誌・2月号(No.521)を読んで:

・特集「出雲と大和 古代のたま」

巻頭寄稿に『出雲と大和をつなぐ玉 玉と「出雲国造神賀詞」奏上儀礼―記・紀には
みられない出雲と大和に関する儀礼―』(瀧音能之・駒沢大学教授)に書かれている
ことが興味を持った。私もどちらかと云えば仏像を意識して2度ほど拝観して来まし
たが、この特集からももっと他に眼を向けねばと思い、近日中にも仏像ばかりでなく
このような視点でも再度拝観してみたい。むしろこちらが展覧会のメインテーマなの
でしょうから。

・「ほっとけない仏たち」50―栃木3・安楽寺薬師如来那須烏山市)青木淳・多
美術大学教授

「医王山宝生院安楽寺」の「薬師如来坐像」(県指定)と左右に立ち並ぶ「十二神将
像」の堂内安置写真入りで紹介されています。この記事を読んで以前に拝観計画を立
てながら実現出来なかったことが気になりました、拝観実現させたいです。青木教授
の記事にはもうひとつ、「菩薩形立像」統一新羅時代(8世紀)、銅造鍍金、像高20.
7㎝、栃木県指定文化財、個人蔵のかわいい全身像画像が眼を引きます。昔の栃木
(下野、上野地域)の地での渡来人とのつながりが示されているものとして注目され
ます。こちらの仏さまも拝観してみたいものです。



●TV番組で「五反田」やいくつかの番組の放送予定を知って:

TV番組表に「五反田」の文字。よく見てみるとTV東京「出没!アド街ック天国」で五
反田駅、島津山周辺を紹介する番組でした。さっそく録画予約して後刻再生して観て
みましょう。当然「史跡・旧岩崎邸」の「清泉女子大学キャンパス」も紹介されるで
しょう。コンドルの遺作の本館内部も紹介されるなら見てみたいですし、坂道の途中
の大学の眼の前の垢抜けした数件の洋食店も併せて紹介されるかもしれません。最近
は、清泉女子大学のキャンパスも訪れることが少なくなり、門衛の方にも昨日久し振
りの挨拶をしましたが、それでも本館の礼拝室のキリスト像や教室のマリア像などが
静かに佇んで学生を見守っているのかと、何時も気にしてしまいます。特にマリア様
像は以前に撮影をしたものをA4サイズにしてPCデスク近くの壁に貼っていつでも眼に
しています。最近は本館は史跡に指定されていて一般訪問者に説明会が行われている
そうです。、シックな館内の階段や手摺、廊下、礼拝室などの扉や窓、階段踊り場の
ホールの綺麗なステンドガラス窓など、受講の日にはしばしば早めに出掛けて行っ
て、何時も静かな雰囲気の中でぶらぶらと歩き回ったことが思い出されます。

そして、番組表では続いて「新美の巨人たち」では、以前は多くのご家庭の食卓や街
の大衆食堂にあったあの大ヒット商品「キッコーマン卓上醤油ビン」を取り上げ、考
案・制作者のGKデザインの「榮久庵憲司」(父親が僧侶?東京芸大デザイン科卒)や
インダストリアルデザインについて放送予定のようです。これも番組録画予約してお
きましょう。

ついでに記すると、同じTV番組表の中からBS181チャンネル「令和の法隆寺~千四
百年の伝承と聖徳太子の残響~」という放送番組も録画予約しておきました。TV東京
と同じでCMが気になりますが止むを得ないので、後刻再生して観ましょう。

他にも1~2週間単位で、これはという番組を事前にTV番組予約操作をして、同時間帯
に2番組までの録画予約が出来るのでかなりアバウトに予約してしまって、後になっ
てからHDDに溜まった20~30本の録画記録から再生を選択して、主に深夜に再生視聴
(1本の番組録画の一部分を再生確認だけをとりあえず済ませて次の録画分に移る)
している状況です。NHKの番組が大半ですがそれでも歴史ものでは一部BS民放番組
(「至福の京都ぶらり歴史散歩」、「歴史科学捜査班」、「京都浪漫悠久の物語」、
「にっぽん歴史鑑定」など)も含まれます。



大津市歴史博物館「れきはく講座」(近年発見された快慶工房の作例について)は
残念ながら聴講出来ず:

私は、最近の持病の悪化のために数日間にわたり満足に歩けなくなり、遠方へ出掛け
ることは諦めました。しばらくで体調は落ち着き既に何とか気を付けながら普段通り
までに動けるようになりました。無理をしないように気を付けて生活しなくてはなり
ません、と云うことで残念ながら楽しみにしていた寺島先生の講義は聴講出来ません
でした。



●久し振りに大橋一章・早大名誉教授にお会いして:

大橋一章・早大名誉教授には、昨年春に体調不良と云うことで楽しみにしていたお話
しを伺うことが出来ずにいましたが、この度久し振りにお会いしてお話しを伺うこと
が出来ました。かなり体調には気を遣っていらっしゃるようで心配になるほどです。
大橋教授の著書にはしばしば眼を通して来ましたが、特に「薬師寺」研究の著書は
いっぱいあり著書、論文を探してコピーをするだけでも大変です。数年前に薬師寺
東塔の件で東京で講演会があった時に購入した『薬師寺 千三百年の精華―美術史研
究のあゆみー』(里文出版、大橋一章 松原智美編著、H12年12月25日発行)内の論
文の総論「薬師寺の創立と移転」を手始めに、肥田路美氏、林南壽(イムナムス)
氏、片岡直樹氏ほかの各テーマにあわせた論文執筆が、浅学の私にとって大変ために
なる書物になっています。その中で會津八一や安藤更生や小林剛や町田甲一の書籍・
論文を知る事になりました。

今回の話しのなかでは、2016年に解体修理中の「薬師寺東塔」で心柱と部材数点が8
世紀前半に伐採されたヒノキ材を用いていたことが「年輪年代測定法」で判明した、
と「奈良文化財研究所」が発表したことが分かり、「扶桑略記」にある東塔建立年代
の記述と合致することから、藤原京から部材ごと移築したのか新たに材料を調達して
建立したのかが明治時代からの移転論争について、大橋教授は「天武、持統天皇
造った寺と一目でわかるよう平城京で創建時と同じ様式で建立したのだろう」という
お話しでした。

2019年に楢原市の「本薬師寺跡」(7世紀末)で「南門」跡が発掘発見されたことが
報告された。「国家主導で建築された特別な施設にしか見られない規格を採用してお
り、藤原京の一等地に立つ国家寺院・本薬師寺だ」と云ことで注目された史跡が紹介
されました。この史跡は西の京にある「薬師寺」の前身寺院で、平城京遷都にともな
い寺院移築されたために跡地が本薬師寺と呼ばれるようになったそうで、現在でも域
内には多くの基壇、塔心礎、礎石類が残っているそうです。

大阪・あべのハルカス美術館で開催される「薬師寺東塔落慶記念・薬師寺展」への展
覧会拝観の前に格好なお話しを伺えました。



●久し振りに「安藤更生」の書籍と「會津八一」の歌集に眼を通して:

安藤更生著『南都逍遥』

見つけました。「奈良の美人」・・・「日吉館の先代、松太郎爺さんは、このKの家
では松太郎夫妻が感心に働いてくれるといふので、今の日吉館の後半部の方を増築し
て、下宿屋を出させてくれた。それが日吉館の始まりである。爺さんは貧乏な暮らし
から、致頭一軒の店が持てるやうに出世したといふので、俺は日吉丸が太閤さまに
なったやうなものだ、というので、店を日吉館と名づけたのである。この話しはあの
ころ美術が好きで奈良にゐた者なら誰でも知ってゐたことで、・・・ところが近ごろ
聞くと、今の日吉館の寅さん夫婦さへ店の名前の由来がわからないさうだから、ここ
に書いておくことにする。・・・」。との文章がありました。

因みに『をじか なく ふるき みやこ の さむき よ を いへ は おもはず
 いにしへ おもふ に』、『かすがの の よ を さむみ か も さをしか 
の まち の ちまた を なき わたり ゆく』は日吉館投宿中の会津八一の詠ん
だ歌です。現在歌を詠んだ石碑は、日吉館跡地の近辺にある「飛鳥園」跡地奥の庭に
2基の石碑が残っていますが、飛鳥園が閉店されたために眼に出来ません。

安藤更生は、もともと東洋美術研究、歴史研究家として、「鑑真和上」のことについ
て小説家・井上靖氏の「天平の甍」執筆の重要な情報提供をしたことで小説が完成し
たという逸話を聞いたことがあります。



會津八一編『南都新唱』

大橋一章・早大名誉教授が「早大会津八一記念館」館長の時に、幾度か早稲田大学
キャンパスに脚を運んだ覚えがあり、最近では2年前の展覧会の時だったと記憶して
います。久し振りの歌集「鹿鳴集」や「南都新唱」をひっくり返してみました。歌人
「秋艸道人」(しゅうそうどうじん)の世界にはいつもながら癒しの気持ちと歴史を
巡らしてしまいます。これからは會津八一の歴史研究者としての「法隆寺法起寺
法輪寺建立年代の研究」(1933年、東洋文庫刊、早大文学部に提出して翌1934年に文
学博士学位取得することになる)を神田の古書店街で探して眼にしたいと願っていま
す。





2020年2月5日  AM0:00   Tak

Takさんからのお便り 2020年1月31日

  • TV番組の録画予約:

先日、西山厚先生から「鑑真和上の渡来」についての講義で先生自身が中国で探訪した画像を見せて頂きながら詳しくお話しを伺ったばかりでしたが、NHKTV番組で「鑑真和上」の苦難の渡来までの行動の跡を巡る番組が放送されます。

このNHKBSプレミアムのシリーズ番組「空撮中国の旅」では、しばらく前に「空海の辿った中国の道」というような番組が放送されたり、「諸葛孔明」、「玄奘三蔵」などの辿った場所や道をドローンで空撮して放送しています。私はこれまでの番組も録画しておりこの29日の番組も録画予約しています。西山厚先生の訪問した時の画像を思い出しながら楽しみたいと思います。

NHKTV番組表: 

 https://www2.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2020-01-29&ch=10&eid=21024&f=5713 

NHKTV番組紹介: 

https://www4.nhk.or.jp/P5713/ 

チャンネル

[BSプレミアム]
2020年1月29日(水) 午後9:00~午後10:30(9

ジャンル

ドキュメンタリー/教養>歴史・紀行
趣味/教育>旅・釣り・アウトドア

番組内容

鑑真が日本に渡る前の知られざる旅。渡航に5回失敗、嵐で熱帯の島に漂着。故郷に戻る過酷な旅をドローンで風となり飛ぶ。視力を失う前、鑑真が見た絶景、桂林の絶景登場!

詳細

奈良・唐招提寺を開いた鑑真。来日前に知られざる過酷な旅を体験、視力を失った。視力を失う前に何を見た?渡航に5回失敗、熱帯の島、海南島に漂着。今やリゾートだがマングローブが広がり当時は流刑地…そこから2千キロ近く離れた故郷へ。ドローンで風となり飛ぶと海の民、山の民、さまざまな少数民族の村の絶景!失敗しても日本を目指す鑑真、同行の日本人僧侶の健康を気づかった場所も…山水画の世界、桂林の絶景も登場!

この番組では鑑真和上は日本に渡来する前に自身が観た中国の景観を案内しているということです。番組でもNHKでは通説により渡来前に「盲目」になったとしての番組編成だと考えられます。

私が直近で寄稿したように西山厚先生の説では「日本での活動の晩年に失明した」というものです。私は、これまでに鑑真についてはあまり深い知識が無いままに過ごして来たがそれでも「會津八一」と並ぶ歴史研究家「安藤更生」氏の昔の著書や「大橋一章」早大名誉教授「林南壽」韓国嶺南大学教授の論文を軽く眼を通したくらいで、あまり知見の無い状態です。その中でも西山先生のように平易な説明をされている推論を知りませんでした。「唐スパイ説」や「聖徳太子敬慕説」、中国人研究者の「慧思が聖徳太子に転生したという慧思後身説」あるいは「天台布教説」など色々な説が百出しているようですが、研究者の書いた文章を読むだけで私の頭の中は一杯です。

先生のお話しでは『東征伝』での「明を失せり」、そして「一切経の誤りを正す」や「諸々の薬物を分類する」というような盲目では為しえないことが記されていることや、それ以前の文書に和上の盲目の身体をいたわる、心配する、庇うような記述が無いことからも、殊更に気配りするまでが無かった、ということだそうです。そして一緒に渡来した弟子たち(宿命の星たち)の多くが亡くなっていく中で、自身の「老い」と渡来してからの活動の困難さや信念の葛藤が多く、「砕け散る宿命の星たちよ せめて密やかにこの身を照らせ」と想いを巡らしたと「昴」の歌詞にもあらわされたのだとのことでした。そして鑑真和上亡きあと10年後に「唐招提寺」が建立されたのですが、『唐招提寺流記』には和上生前に「稍生難視之想」(ようやく難視の想いを生じ)と記されていて和上の晩年にはっきりと光明を失ったと記しており、日本での使命を終えたというものです。私は、当日の西山厚先生の講義の中で、この場面の話しが何故か一番胸が篤くなるのを禁じえませんでした。

 

  • 購入図書です:

寒い雨の中を買い物に出掛けた際に、最寄り駅ビル内の行きつけの書店に立寄り、奈良博・鈴木善博研究員の著書「対比・・・」が店頭で見られるかを知りたくて探しましたが見つかりませんでした。ついでに店内で眼についた図書を無意識に購入してしまいました。

「奈良 秘宝・秘仏の旅」(朝日新聞奈良総局編、朝日新聞出版、朝日新書、2010年2月第1刷発行、231ページ) お馴染みの「小滝ちひろ」氏の簡単な解説による地域別・寺院別合計54社寺の紹介は、本当に初歩的なそれでいて適切な解説書になっているものです。

「最強の人生指南書―佐藤一斎「言志四緑」を読む―」(斎藤孝著、祥伝社新書、251ページ) 私が心酔・傾倒した先哲で昔読み漁った本で手許にある「言志四緑」(げんししろく)についての新書版の解説書として簡便に読める一冊として即座に購入してしまいました。

またまた本棚に書籍が溜まってしまった感があります。帯封に「西郷隆盛佐久間象山吉田松陰坂本竜馬―彼らはなぜ、この本に心酔したのかー」。私のひいき近世儒者の一人です。

 

  • 今後の寺院拝観計画:

喜光寺」、「竹林寺」、ついでに「宝山寺・・・昨年11月の「東大寺グレイトブッダシンポジウム(GBS)」(東大寺行基菩薩)(昨年末に既に報告済み)で関心が高まった「行基菩薩」関連の寺院と近所の重要寺院をついでに拝観計画。

霊山寺・・・来月の西山厚先生の「渡来僧と日本」(第2回・菩提僧正と霊山寺)にちなんで「菩提僧正(菩提僊那)」の関係深い寺院として拝観計画。

 

独立行政法人国立文化財機構東博、京博、奈良博、九博、奈良文化財研究所飛鳥資料館)サイトの発表:

https://www.nich.go.jp/infomation/news/kaitei2020/ 

東博サイト発表:

https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2007 

京博サイト発表:

https://www.kyohaku.go.jp/jp/oshirase/post_200130.html

奈良博サイト発表:

https://www.narahaku.go.jp/news/download/2020Fees.pdf 

 

*あわせて各館の「新時代プラン」の企画・構想についても眼を通して見ると面白いです。

 

今から7月・8月・9月の行動・生活計画をどうしようかと考える。オリ・パラを敬遠して東北、信州などの城郭・歴史探訪、登山、秘境・温泉保養など幾つか候補を挙げて、首都圏からの逃避を決めたい。日程だけでなく費用も掛かるので頭が痛い感じ。ただいま私の机の上は、「山と渓谷」誌やその他今まで保存していた山岳関係の雑誌や、新しくネットからプリントした各地の候補地の情報を広げて一杯で、あれこれ見回しているところです。今年の夏の天候も気になるところです。

 

春日大社「最古の日本刀の世界」展の展覧会について

春日大社展覧会案内:

https://kasugakatana.com/event.html

展示刀剣類リスト:

https://kasugakatana.com/image/list.pdf 

 

 

2020年1月31日  12:00   Tak

Takさんからのお便り 2020年1月26日

先日(122日・水)は昼頃に自宅を出て、東博「出雲と大和」展の第二回目の拝観となりました。第一回目の際に気になった石仏などや銅鐸の文様の変遷などを主に時間をかけて巡ったつもりです。以前東博の講演会で講師をされていて私も聴講した大学の先生(氏名を失念)が会場にお見えで、数人の中年の男女の人たちと一緒にゆっくりと作例を巡って歓談をしていたので、私は先生に最初にご挨拶をしてから最初は彼らの塊の後ろからそしていつの間にか一緒にいろいろな話しを伺いながらご一緒しました。彼らも私に拘るでもなく仲間として先生を中心に勝手なお話しをしながら会場を移動していきました。しばらくしたら先生の都合からか所定の時間制限からかある場所で三々五々解散となりました。私もある男女のお二人としばらくご一緒してからお別れしました。最後までどのような集まりだったのか不明でしたが、学校の先生の関係での勉強会だったのでしょう。

 

私はその後「東洋館」をめぐってから東博を後にし、メトロ銀座線「三越前」駅で下車し、寒いので馴染みのスタンド蕎麦屋でいつもの「かき揚げうどん」を超遅い昼飯あるいは早い夕食として食べました。うどんの出汁は薄口でソバとは別の出汁で、この時期では必ず「柚子」の小さな切片をいくつか載せて下さり、香り風味が良くいつも気に入っています。元気なお店の叔母さんも相変わらずです。

 

 

 

西山厚先生の講義を聴講(122日):

 

既に街中は暗くなり日本橋の通りの街路灯が眩しく映るビルのウインドーを横目に、講義会場を目指しました。日本橋の会場の2階受付で封筒入りの資料を受け取り、何時もの狭い会場へ。普段の教室型の机配置ではなく3人掛けのテーブルを縦横に向かい合わせに配置しており、席位置によっては首を横へ向けて正面の画面を見るような格好になるのが気になりました。そこで最後部分の画面正面に向いた端の席を確保しました。隣は和服を着た婦人でした。テーブルには奈良産の緑茶のペットボトルが置かれており、着席した後では主宰者の方々が「柿の葉寿司」を2個ずつ配って下りました。結局私は近くのスタンド蕎麦屋で食事をしたばかりだったので、リュックに放り込み持ち帰りました。

 

しばらくで、「西山厚先生」(半蔵門ミュージアム館長、手塚山大學客員教授)が狭い会場内にお見えになりました。私もさっそくご挨拶。昨年の6月の奈良・浄教寺本堂での「フェノロサ、ビゲロー」講座の際に講義後にお堂内の片付けの横で遅くまで西山先生にお話しを伺った経験があったので、西山先生の「フェノロサ観」を知り得たその時の様子をお話ししたのと、来月の「菩提僊那と霊仙寺」についても若干質問をして私の相手をしていただきました。菩提僊那については先月の東大寺での講座や昨年の「東大寺GBS講座」での断片的な話しは伺っていたのですが、まさに東大寺・上司永照師に指摘された通り、東大寺での菩提僊那の事績は「鑑真和上」以上に遺っていないことをつくづく説明されたものですが、今度は西山先生に少しでもお話しをしていただけたらという気持ちです。

 

 

 

私は前の晩に2015年(H27年)に東博で開催された「唐招提寺金堂大修理記念・唐招提寺と国宝鑑真和上像と毘盧遮那仏」展覧会の図録から掲載論文「鑑真和上」(作家・故陳舜臣著)と「鑑真和上と仏像」(当時東博・岩佐光?学芸員著)と「鑑真和上略年譜」、「唐招提寺略年表」をコピーして眼を通して行きました。講義のテーマは「渡来僧と日本」ということだったので、鑑真が苦労の末に日本にたどり着いた経緯の話しか、あるいは東大寺での戒壇律宗との話しかとどちらかだろうと考えて出掛けました。

 

西山厚先生の話しの中心は、鑑真和上の渡日の苦労話でした。△△・・・。持参した「鑑真和上略年譜」コピーが大変に役立ち、鑑真和上に付き従ってきた弟子僧の活動なども時代順に説明下さったので、これまで判らなかったその時の様子を知ることも出来ました。特に西山先生の穏やかな軽やかなゆっくりとした口調は、私の頭の中の

理解を脳内に浸透させるに適している感じでした。また、西山先生が実際に「鑑真和上」の中国での活動寺院や渡日までの7回の渡航チャレンジの様子にあわせて揚州、寧波などを探訪して巡った様子をご自分の姿を写し込んだ画像を多く紹介して下さり、中国の様子も感じられて面白かったです。

 

 

 

「目を閉じて何も見えず 哀しくて目を開ければ 荒野に向かう道より 他に見えるものはなし 嗚呼 砕け散る宿命(さだめ)の星たちよ せめて密やかに この身を照らせよ」谷村新司作詞・作曲のこの曲「昴」(すばる)が、井上靖の小説「天平の甍」の映画化で出来た曲だということを知ったのは、私がこの曲を口ずさむようになったずいぶん昔の若い頃のことでした。鑑真が日本へ渡る苦労の最中に盲目となったと知った時にこの曲がすごく身に染みた覚えがあって、まてよしかし何も見えなくても眼を開ければ道のみが見える、それでは鑑真は盲目ではなかったのではないかと、単純にこれまで長いことそう思っていました。

 

まさに西山厚先生はそのことを講義中何度も繰り返されました。だいぶ以前に唐招提寺金堂前でイベントがあった時に西山厚先生と檀ふみさんがゲストで登壇した際に、檀ふみさんから「昴」を唱ってください、とのリクエストがあり、大勢の観衆の前でそれも谷村新司氏が目の前にいる場所で、唱ったことがあったそうです。西山厚先生は当時の様子をスライド画像をいっぱい映写しながらまんざらでもない表情で解説されていました。

 

『東征伝』・・・「明を失せり」、「一切経の誤りを正す」、「諸々の薬物を分類する」、 『唐招提寺流記』・・・「稍生難視之想」(ようやく難視の想いを生じ)

 

 

 

鈴木善博・奈良博研究員の講義を聴講(124日):

 

昼から奈良博研究員・鈴木善博氏が講師の少人数での講義で、先生の深く関与した「東大寺南大門金剛力士像」解体修理時の紹介と格別な画像公開、阿吽像の部位別対比に込めた仏師の意匠、「重源上人像」の対比による仏師の「意匠と彫り」に心を込めた様子を、彼なりの観点で解説していただきました。この話しは鈴木研究員が昨年11月に出版された平易な仏像解説書「対比でみる日本の仏像」(パイインタ―ナショナル、201911月刊)のPR講座みたいなものでしたから、気軽に聴講が出来ました。

講義会場に持ち込まれた新書版ほどの図書を拝見すると、面白いことにこの新書版のページ面はイラストを多用しており、文章には英文も対訳されて記述されていて外国人観光客向けの冊子にもなっているようです。タイトルの通り日本語と英語の対比になっているという企画です。対になった仏像や同じ仏像でも時代の違う仏像などについて視点の違いや部位の違い、あるいは着衣の質感、体躯の量的な差異、腕・脚部のアングル、肉付き、姿勢の前傾度合いなどやいろいろと比較することにより、同じ仏様でも受ける印象が変化して行く様子を知ることが出来る、というものです。特に南大門金剛力士像については仏師「運慶」、「快慶」の作風などからどちらの像をどちらの仏師が製作したのか、ということが昔から議論になってきたのですから。同じように「興福寺北円堂無着・世親像」などは対比の対象です。また同じ像でも「東大寺俊乗堂・重源上人像」も研究者の間で議論があります。また上人像は「別所」3か所にある同じ上人像との対比も話題になります。確かに参加者に同じ画像を提示して意見を聞いてみても、各人各様に印象が違うことが知れて、思いがけない印象を感じられます。仏像鑑賞者の立場での視点と、一方製作者である仏師の製作上の想いの発現が彫像の彫りの様子に現れているものであることを考慮した視点があることを気に留めた鑑賞・拝観が必要だという。そして「堂内に安置されている仏さまの表情は正面からしか拝せずその発するオーラが感じられないことが多いが、最近は展覧会では四周から拝することで製作者の意匠力、構想力や信仰心などを知ることが出来るはず」とのことでした。

 

別途、私と鈴木研究員との個別の歓談の中で、「根立研介」京都大学教授が著わした「運慶の挑戦」という著書・論文による「南大門金剛力士像」の説・主張についてと、もうひとつ「重源」の作善集の記述の解釈についても少し細かく解説をしていただきました。

 

次回は如意輪観音菩薩像の対比を試みてくださるとのことでしたが、法隆寺金堂壁画と百済観音像の解説の後になるそうで、今日の話しの様子では4月になってからの実施となりそうです。

 

 

 

東大寺・上司永照師がラジオ番組でお話しをされていました(125日):

 

125日の未明(午前3時~4時頃?)、NHKFM放送の番組で「東大寺・上司永照師」がNHK桜井アナとの対談で、時節柄の話題で彼がこれまでに「東大寺・修二会」に参加して来た経験を、克明に面白くお話しをされていました。「修二会・別火」など「練行衆」でなければ分からない様子を、ベッドの中で横になりながら聞くことが出来ました。上司師の相変わらずの早口のペースでしたが私は結局その話を最後まで聞いてしまい、その後も寝つけず完全に徹夜をしてしまいました。

 

 

 

山本勉教授の最終講義を聴講(125日):

 

町内会「ゴミネット」を来週の当番である隣家の御主人に渡し終えてから出掛けました。

 

大学の文化史学科の助手で事務局のウリュウキョウコさんから届いたメールでは、開場時間1210、受付開始1210、開会1305、最終講義13101440とのことであったので、メールコピーを手にして出掛けました。思えば昨年の7月の「ラファエラアカデミア」講義以来と云うことで、すごく久しい感じでJRの最寄り駅を降りて裏

道をのんびり歩いて学校の正門の顔馴染みの守衛さんに挨拶をして石段を登りました。

 

講義会場の建物の玄関前には既に数人の聴講参加者が寒い風の吹く中で並んでいました。その列の前から2番目にはいつもの皆さんの仲間である顔馴染みの男性の後姿が見かけられました。私はまだ時間があるので、何時もの岩崎邸の建物の中で、学生課事務室のあるホールと地下の温かい学生ロビーで休憩をしていました。到着後20分くらいで講義受付時間になったので講堂側の建物に向かい、受付を済ませて4階へ向かいました。

 

会場入口でお会いしたのは、いろいろな講義などの時によく見かける小柄な女性で、昔から「清泉ラファエラ」講座には「金沢文庫・瀬谷貴之」学芸員の講義の際にも教室最前列で熱心に聴講していた方で、昨年も「興福寺藤原不比等遠忌法要」などでもお会いしたくらいの熱心な行動的な方で顔馴染みの方でした。先に入場した馴染みの彼もいつもの定位置のような場所に着席をしていたので、会釈をして別れました。私はこの講堂でのいつもの定位置に荷物を置いてみたのですが、今日の講義はいつもと違い、学生や学校の関係者で一杯、しかも連れ立って聴講されると思い、演壇正面の最上段に座席を変えました。最上段正面の座席は三脚付きの大型ビデオカメラが固定されており、隣に女学生が録画用にスタンバイしていました。イベントの様子を録画して茶話会の会場でも紹介するということでした。その女学生と山本勉先生のプライベートなことでおしゃべり(愛猫家、卒論レポートの文章や文字表現のこだわり、おしゃべりが長く時間オーバー)などで短時間だったが気軽におしゃべりが出来ました。演壇の背面壁面には3面のスクリーンが並び着席位置による視聴の不具合は無く、特に私は正面に位置しているので、3面すべてにほぼ正面に綺麗に観ることが出来ました。私の近くの席は、首からぶら下がる受講証で判別できるように多くの学内・学外の研究者や学校の関係者で満席でした。

 

最終講義は、文化史学科主任・狐塚裕子教授の挨拶に続いて山本勉教授の紹介を高野禎子教授からあり、学内・学科内の方々には教授の退官を惜しむ声がしきりだということが分かりました。そして山本勉教授の最終講義が始まりました。講義後は坂田奈々絵専任講師からの花束贈呈、閉会辞を井上まどか准教授によって取り行われました。

 

 

 

山本勉教授の講義演題は『運慶と像内納入品』として、いつものようにA4判用紙に6コマ編輯のレジメが8ページとともに、講義に資する参考文献の一覧が両面印刷された1ページ用紙が配布されていました。そしていつもと違うのは「山本勉先生へのメッセージ」というタイトルのB5版用紙が添付されており、講義終了後回収して先生にお渡しするということだったので、私も幾多の講義や論文など多くの新知見やモノを視る視点や作例の意匠の捉え方などご教示を頂いたことを感謝し、金沢文庫の展示会場でお逢いしたことが直近でお話しをした思い出だったということを付け加えた。

そして私の亡妻が山本勉教授の奥様が立教大学での活動を知り、私ども2人の話題になったことや不慮な事故で若くして亡くなられたことを偲んだことがあったことなど、小さな文字で書き留めて会場退出時に学生に手渡した。しかし今思い返してみるとメッセージに私の名前を書き記すのを忘れていたことが残念至極。

 

山本教授の講義内容は、既に皆さんもよくご存じの事柄が多く、改めて新しい知見も無いくらいだが、それでもきちんとまとまった整理された内容で、誰が聴講しても分かり易いものとなっていました。

 

大きな単元としては、1.運慶(活動略歴・造像事績●■印、仏師系図など)、2.像内納入品(作例紹介、納入品種類など、円成寺大日如来像と醍醐寺三宝弥勒菩薩像の後頭部下方の窓開き蓋板の事例)、3.像内納入品解説-1(願成就院六波羅蜜寺)、4.像内納入品―2(浄楽寺、真如苑、光得寺)、5.像内納入品―3興福寺北円堂弥勒仏像)。特に山本教授の話しのなかでは、全体を通じての論点の中心となった運慶の像内納入品として「浄楽寺」から「真如苑」、「光得寺」そして最後の「興福寺・北円堂」への歴史の流れと納入の「胸」位置というこだわりと工夫と意匠にこだわった「心月輪」にかける信仰心、仏さまの「こころ」としての思いの強さが強調されていました。ちなみに結縁や経典中心の快慶の像内納入品との違いを引き合いに出されて、比較されてお話しをされていました。最後に山本教授も「北円堂・弥勒仏像」の像内納入品の心月輪をご自分の眼で確かめてみたいという願いを吐露されていました。あとの講義内容の詳細については、聴講された「集いの会」の馴染みの研究者にお伺いくださった方がよく判るでしょう。

 

講義後は撮影カメラの撤去作業を手伝ってあげた後で女学生の手許にあった講義のレジメを1部頂いて彼女らと分かれました。これでレジメは2部となりました。お望みでしたらコピーして、何かの折にお渡しすることは可能です。私は講義終了後にほぼ聴講者が退場された後遅くになって退出し、階段で地下まで行ってみましたが、会場にまで行き着かないほどに混雑していたので様子を確認するまでもなくその場を離れました。もともと「茶話会」には参加する意思はないのでそのまま建物の外に出て帰途に就きました。馴染みの彼は姿を見なかったのでもしかしたら茶話会に参加していたかもしれません。顔馴染みの女性とは屋外で合流してJR渋谷駅まで一緒することとなりました。

 

 

 

今後の予定:

 

128日(火):東京芸大「卒業・修了作品展」(1/282/2

 

21日(土):大津歴博「近年発見された快慶工房の作例について」(寺島典人・

学芸員

 

26日(木):奈良博「毘沙門天―北方鎮護のカミー」展覧会拝観

 

27日(金):薬師寺東塔修理落慶講座「薬師寺復興について」(大谷徹奘・薬師

寺執事長)

 

212日(水):奈良博「毘沙門天―北方鎮護のカミー」特別鑑賞会(1630~)

 

 

 

2020126日  2300 Tak

Takさんからのお便り 2020年1月21日

昨日、自家用車のディーラーにお願いしていた自家用車の回収をしていただいた。か
なり以前からカーポートに置きっぱなしになっていた自家用車が持ち出されて、玄関
前のスペースが広々として気持ちよくなったようです。まったくと云えるほど利用し
ていなかった自家用車を所有しているよりも、時々タクシーを利用している方が自分
で運転する神経を使う気分的な緊張や、何といってもタクシー後部座席でゆっくりと
休める気楽さが自家用車には代えられません。もともとあまり運転が好きなほうでは
なかったので、ディーラ―に回収してもらって数年間の気がかりが無くなってスッキ
リとしました。それでも自家用車の想い出は亡妻の闘病中の通院などに使用したりそ
の後の墓参に利用したりしたのが最後となり、PCデスクの隅には自家用車の前に並ん
で立つ亡妻との小さな額写真が置かれて、いつも目にしているものです。



今朝は、日差しもあり広くなったカーポートの片隅で年末から新年にかけての「単独
行」の最後の片付けの、登山靴のビブラム底の小石や泥落としの掃除をしてシュラフ
を広げて干す作業をしました。昨年は半分の行程くらいがあまり天候に恵まれなかっ
たのですが、今年の天候にも不安が残ります。若い頃は天候を気にせずにピークハン
ターのように「百名山」登頂座数を消化していったりしたものですが、最近は何か山
行に意味付けや物語りのような、私の寺院拝観や仏像拝観の芋吊る式のストーリー性
と同じ様に、縁を結んでいくような話しの展開が広がるような山行を意識していま
す。今年の参考についてもこれからターゲットを絞って行こうという段階です。しか
し、最近の山行での気になるところは、自分の登山装備の「旧式・古めかさ」感があ
ります。行く先々で会う登山者は皆最新の装備と服装で身を固めているのが気になり
ます。登山用品・服装はどれをとっても過酷な環境での使用を想定し科学の先端技術
をいち早く取り入れて英仏米などの外国製が多く、かなり高価なものが多く買い替え
たりするには、私のように年数回の低登山山行の頻度には割に合わないもののような
気がしますが、それでも万が一を考えて装備はしっかりとしたものにするべきでしょ
う。



私の居住地域の自治会の役員の方から耳よりの情報を伺いました。隣の川崎市NPO
法人が運営している活動のなかに、私の関心を呼びそうな講座があるそうです。明日
には詳細を伺って私の都合とてらしてみて参加出来れば良いな、と思っています。

講座は、多摩美術大学青木淳教授と中村恒克氏(東京芸大大学院卒・藪内教授門下
生、宝菩提院菩薩半跏像模刻を制作された学生)のお二人が講師で4月~9月の上半期
の期間、講座回数は12回と云うことです。



●「清泉ラファエラアカデミア・2020講座」の開催案内が分かりました。山本勉教授
の通常講座、一日講座があります。 なお、受講申し込みは2月7日(金)から開始で
す。

・「シルクロード 最新の出土資料・研究成果から見るー」(福島恵・清泉女子大学
講師)各回13:30~15:00  6月20日(土)、6月27日(土)、7月4日(土)、11月
14日(土)、11月21日(土)、12月12日(土)の6回開催。

・「日本仏像史講義 飛鳥・奈良時代編―仏像の黎明と古典の成立―」(山本勉教
授) 各回15:10~16:40 4月25日(土)、5月30日(土)、6月27日(土)、10月
17日(土)、11月21日(土)、12月19日土)の6回開催。 テキスト:「日本仏像史
講義」(山本勉著、平凡社新書)で時代別のポイント作例などを参照しながらの各回
講義になるそうです。教授の年間講義は久々のことになります。

・「仏師康慶―運慶と中世彫刻の偉大な父―」(山本勉教授)一日講座・7月18日
(土)13:30~15:40(休憩を挟む)

・「横浜の仏像―横浜市歴史博物館の特別展を鑑賞するためにー」(山本勉教授)一
日講座・2021年1月30日(土)13:30~15:40(休憩を挟む) 来年の年始開催予定の
展覧会で山本教授が展覧会監修担当するそうです。



東京藝術大学文化財保存学専攻保存修理彫刻研究室から リーフレットによる行事
の開催案内が届きました。

・「第68回 卒業・修了作品展」 1月28日(火)~2月2日(日) 9:30~17:30 
大学美術館陳列館 入場無料

・「研究報告発表展」 5月22日(金)~5月26日(火)予定 10:00~17:00 大学
美術館陳列館

以上は、私が昨秋にご報告した内容と変更がありません。リーフレットには、聖林寺
十一面観音菩薩立像、僧形八幡神坐像(ボストン美術館)、平等院雲中供養菩薩像南
二十号のほぼ完成状態の製作中の画像が大きくレイアウトされていて、学生の力量の
ほどが知れるものです。



奈良国立博物館「博物館だより」の冊子が届きました。

「話題」ページには岩田茂樹上席研究員が『はじまりは「ご縁」!』という題目で、
毘沙門天―北方鎮護のカミー」展に因んで展覧会開催の理由について「毘沙門天
のご縁がきっかけ」の解説です。きっかけの始まりは「石清水八幡宮・多宝塔」安置
鎌倉時代中期の慶派仏師の作とみられる像を奈良博が購入したことに始まり、2016
年には甲賀市の古文化財調査の際に出会った像態がバラバラになりかけた痛ましい姿
の「高雄地蔵堂」の仏像もあったそうです。また2年ほど前には愛媛県・大洲市の大
洲藩主加藤家の菩提寺「如法寺」の「木心乾漆造り」の仏像を調査し寄託を受けた上
で学術誌にも報告しています(この像については、当時奈良博館内で展示・解説が行
われ、私もさっそく行って拝観・聴講した覚えがあり、集いの会にも寄稿報告をした
覚えがあります)。また米国・ロサンゼルスの美術館が所蔵する仏像の調査を美術館
から依頼されて現在調査中だそうで、もとは島根の奥出雲「岩屋寺」に旧蔵の仏像
で、胎内に赤外線カメラを挿入して調査したところ墨書銘や絵画など「保安5年
(1124年)の年紀が発見されている。他にも久々の出展となった「鞍馬寺像」や「大
宰府像」、「東寺像」なども加えて展示される、との紹介があります。



●奈良博サンデートーク

・3月15日(日) 「旧帝国奈良博物館本館と片山東熊―日本人建築家と日本近代建
築の誕生―」 宮崎幹子(奈良博学芸部資料室長)

・4月19日(日) 「描かれた東大寺大仏の姿」 萩谷みどり(奈良博「学芸部研究
員」

・5月17日(日) 「奈良国立博物館所蔵の古写真にみる奈良公園周辺の景観」 野
尻忠(奈良博学芸部企画室長)

・6月21日(日) 「先立目録と仏像研究」 山口隆介(奈良博学芸部主任研究員)



●奈良博公開講座

・2月11日(火・祝)「不退の行法、東大寺修二会(お水取り)」 北河原公敬(東
大寺長老)

・2月15日(土) 「毘沙門天の源流を探るーインドからガンダーラ・西域へ―」 
宮治昭)龍谷大学名誉教授)

・2月29日(土) 「唐宋時代の毘沙門天像―王朝の守護神―」 佐藤有希子(奈良
女子大学准教授)

・3月14日(土) 「日本における毘沙門天像の展開」 岩田茂樹(奈良博上席研究
員)



●奈良博「カミ展特別鑑賞会」の確認がありました。

私が以前申込をしていた「特別鑑賞会」(2月12日・夕方~)の参加案内の通知があ
りました。特別展の開催時間以降の16:30~18:30までで、担当研究員(岩田茂樹研
究員ほか)の開設後に展示会場の貸切自由拝観が予定されています。私は12日以前の
日に別途拝観予定ですので講義の後の拝観は講義内容を受けてポイントを絞って拝観
して来たいと思っています。



薬師寺東塔慶賛法要・奉納行事

2010年5月1日(金)~5月10日(日)東塔前屋外特設会場 13:00~法要、14:00~
奉納行事(伎楽、神楽、オペラ、吹奏楽、邦楽などの演目行事)



薬師寺東塔大修理東塔内陣特別公開(初層内陣拝観)

2020年5月1日(金)~2021年1月17日(日)



●「吉野寺放光樟像―吉野路の微笑仏―」講義+拝観

2020年4月16日(木)13:30~16:00 世尊寺大淀町) 講義+内陣拝観(元興寺
文化財研究所研究員による) 有料・事前申込



●「円成寺の運慶作大日如来像と本尊阿弥陀如来像」講義+拝観

2020年5月18日(月)13:30~16:00 円成寺 講義+内陣拝観(奈良博:鈴木善博
名誉館員による) 有料・事前申込



司馬遼太郎・「第24回・菜の花忌シンポジウム」への参加

2020年2月14日(金)17:00~20:00 有楽町・よみうりホール 「土方歳三と河井
継之助―『燃えよ剣」『峠』より』

司馬遼太郎賞:堀川惠子(作家)(受賞作・『狼の義 新犬養木堂伝』)…本書は林
新氏(元NHKプロデューサー)が構想・着手していた内容を林氏の没後に妻の堀川惠
子氏が引き継いで執筆、完成させた作品。

シンポジウム:河井継之助映画化の小泉堯史映画監督、黒川博行作家)、星野知子
(女優、エッセイスト)、磯田道史国際日本文化研究センター教授)、古屋和雄
(司会、元NHKアナウンサー、文化外国語専門学校校長)



司馬遼太郎記念館・企画展「『坂の上の雲』に見る武人の教養―広瀬武夫の“最後
の手紙”にちなんで―」拝観

~4月19日(日) 10:00~17:00 関西地方へ出掛けるついでに立ち寄りたいでま
だ未定。



2020年1月21日  PM22:30    Tak

正月四日  深淵 七福神巡拝 & (天恩山五百羅漢寺)参拝

去る11月2日の「仏像愛好の集」定例会 ミーテイング時に 来年正月4日に「元祖山手七福神めぐり(目黒七福神巡り)」企画が実行と決定しました。
11月2日の「仏像愛好の集」定例会の席では 東急目黒線 不動前駅 集合の意見が出てましたが、 熟考の結果 下段のコースに 変更させて頂きます。

コースは3km余りで巡拝に要する時間は2時間程度だが、御朱印の待ち時間によって大きく違ってくるため、事前に、御朱印の件、話し合いが必要。御朱印の可否の決定をします。

各寺院はほぼ一列に並んでおり、白金の覚林寺(清正公)もしくは目黒の瀧泉寺目黒不動)から始めることになるが、途中の五百羅漢寺に立ち寄り可能性の都合、アフターの懇親食事会の店舗の点で、白金から目黒に向かう、を選択しました。 この順の巡拝は、無病息災・長寿祈願の御利益があるとされます。

修正の【集合場所日時】
4日 10:00am
都営地下鉄三田線東京メトロ南北線白金高輪駅:1番出口(清正公前交差点方面)防寒 風除けの為、の道路に出る前の構内側 階段の下にします。
↓ 徒歩5分

10:10(清正公 覚林寺):寛永8年(1631)可観院日延上人によって開創
日延上人は李氏朝鮮の臨海君(第14代国王・宣祖の庶長子)の子で、文禄の役の際、加藤清正が連れ帰って養育した。熱心な法華信者であった清正の信仰を受け継ぎ、博多の寺で出家。次第に頭角を現し、30歳で小湊誕生寺十八世となった。
誕生寺を退出した後に覚林寺を開き、清正公の像を祀った。以来、「白金の清正公さま」と親しまれ、開運・勝運の神として信仰を集めている。

  【毘沙門天】……武道成就、降魔厄除、家内安全、夫婦和合の神様
  (10分間)10:20

↓徒歩8分
10:30(瑞聖寺)御本尊:釈迦如来・札所本尊:布袋尊
  【布袋尊】……千客万来、家運隆盛、家庭円満、商売繁盛
  (10分間)10:40
徒歩7分
10:50(妙円寺足利尊氏開運の念持仏である妙見大菩薩の像を奉安し、「白金の妙見さま」として親しまれている。
 【福禄寿】……財運招福、延命長寿、立身出世、招徳人望の神様
 【寿老人】……幸福長寿、家庭円満、延命長寿、福徳智慧の神様 (10分間)
11:00
↓徒歩10分
11:10(大円寺)当寺は、目黒行人坂の途中にあり、大黒寺の通称で知られる。御本尊は清涼寺式の生身釈迦如来(国の重要文化財)だが当、釈迦堂に祀られており、正面本堂には開運大黒天を祀っている。
寺伝によれば、寛永元年(1624)出羽湯殿山の行者・大海法印が大日如来を祀る道場を建立したことに始まる。行人坂の名は、大円寺を拠点とする修験者たちが個々を往来したことによるといわれる。
明和9年(1772)江戸三大大火の一・明和の大火(行人坂火事)で焼失したが、その火元であったことから幕府の咎を受けて再建を許されず、本尊・大日如来像や過去帳などは隣寺の明王院に移された。境内の五百羅漢石像(都有形文化財)は、この大火の犠牲者の供養のために作られたと伝えられる。
嘉永元年(1848)島津斉興の帰依を得てようやく再建された。一方、明王院は次第に衰微し、明治初年に大円寺に合併されて仏像も移された。
山手七福神の大黒天は正面本堂に祀られた開運大黒天。『新編武蔵風土記稿』を見ると、当時は明王院に祀られていたようである。『江戸名所図会』の行人坂の図にも、明王院に「大こく」と書かれたお堂が見える。(20分間)

 【大黒天】……五穀豊穣、子孫愛育、出世開運、商売繁盛の神様
11:30  
徒歩7分
11:40(蟠龍寺)宝永6年(1709)増上寺の霊雲上人が行人坂下にあった称明院をここに移し、霊雲を中興として、霊雲山称明院蟠龍寺と改めた。
さらに寛政6年(1794)浄土宗の戒律を復興するため、増上寺の妙誉定月和尚の志願により律院(戒律を厳守する寺院)に改められた。今も「不許辛肉酒入山門」の結界石にその名残を見ることができる。
 【弁財天】……恋愛成就、学徳成就、諸芸上達、福徳施与の神様 (10分間)
山手七福神の弁財天は、本堂脇の岩窟内に八臂弁財天の石像が、弁天堂に同じく木像が祀られている。岩窟内の弁財天は岩屋(窟)弁天の名で知られ、『江戸名所図会』にも「蟠龍寺窟弁天祠」として描かれている。弁天堂の木像は七福神詣の期間のみ拝観することが可能。
11:50
徒歩7分
12:00 )(瀧泉寺)(通称:目黒不動尊)札所本尊:恵比寿神
創建年代:大同3年(808)開山:慈覚大師円仁
宗派:天台宗

当寺は、慈覚大師円仁の開創による関東最古の不動霊場である。
大同3年(808)15歳の慈覚大師は、師の広智阿闍梨とともに比叡山伝教大師の元へ向かう途中、目黒の地に立ち寄った。その夜、大師の夢に不動明王が現れ、「我、この地に迹を垂れ、魔を伏し、国を鎮めんと思うなり」と告げた。そこで、その尊容を自ら彫刻し、一寺を建立したと伝えられる。
江戸時代には徳川家光が深く帰依し、五十三棟に及ぶ大伽藍を造営した。以来、江戸の裏鬼門鎮護として歴代将軍がたびたび参詣し、広く庶民の信仰も集めたという(30分間)
JR山手線「目黒駅」へは、徒歩13分

(昼食)(天恩山五百羅漢寺)
昼食を 目黒不動門前町の店での摂る。 その後、近くの 五百羅漢寺で「目黒のらかんさん」として親しまれています。
元禄時代に松雲元慶禅師が、江戸の町を托鉢して集めた浄財をもとに、十数年
の歳月をかけて彫りあげた五百体以上の東京都重要文化財に指定されています群像を鑑賞しませんか? 
天恩山五百羅漢寺は元禄八年(1695) 本所五ツ目(現在の江東区大島)に創建
されましたが、明治維新とともに寺は没落し、明治四十一年、目黒のこの地に
移ってきました。長年の風雪痛んでいましたが、昭和五十六年に近代的なお堂が完成し、名実ともに「目黒のらかんさん」としてよみがえりました。
どうぞゆっくりと「目黒のらかんさん」にお参りしませんか? 
(し
その後 目黒駅周辺で、懇親新年食事会をしませんか? 

この企画に ご意見 ご希望が ありましたなら、早期に コメント・つぶやきにてお寄せください!

 

12月12日  興福寺文化講座東京 「応仁の乱と興福寺」 興福寺執事長 夛川 良俊 と 法話「奈良・祈り・心」

昨日12日 興福寺文化講座東京 「応仁の乱興福寺興福寺執事長 夛川 良俊 と 法話「奈良・祈り・心」 興福寺寺務老院多川 俊映師 に行ってました。 一時は、 「仏像愛好の集」のメンバーが 大勢集まる時期もありましたが、最近はすっかり集まらなくなって寂しいです。 でも昨日は、メンバーのお一人が、見えましたよ!

硬派の歴史書としては異例の37万部超の「応仁の乱」(中公新書)は・・・、
読書嫌いの自分は読んでいません! そこで、少しでも その匂いを嗅げたらと 思って受講しました。 足利将軍系図・畠山氏略系図・一乗院と大乗院の歴代門主 年表の、(B4サイズ 3頁にビッシリの)配布資料でした。それらを ご御入用の方がいらっしゃいましたなら、お譲りします。

その日の第一講は パワーポイントの具合も悪く、また私の素養不足と テーマの膨大が、相まって 私には、良くは理解できませんでした。 講師も言ってました。 詳しくは、眠られぬ夜に 配布資料を読んでみてくださいと・・・、 下手な睡眠導入剤より効果ありそうです。と・・・、

てなわけで 第一講 「応仁の乱興福寺」は 私には ほぼ お手上げでした。 

お目当ての 法話「奈良・祈り・心」 興福寺寺務老院 多川 俊映師の方は、仏教名言集 と題しての連続法話でして、 当日は その6回目でした。出典は何時もの様に 『ブッダのことば―スッタニパータ―』からが多かったです。

① ―― 多聞は是れ道場なり、聞の如く行うが故に、『維摩経』菩薩品第四

多聞とは 多く教えを聞くことと解しました。聞の如く行う は、聞きました教えを実践することが、肝心と言っているみたい有です。
  
ヴァイシャーリーで、道場を探している光厳童子維摩居士に出会い、挨拶して、「何処へ行かれてたのですか?」と聞けば、維摩居士は、「私は道場から来ました」と答えたので、光厳童子が“「どこの道場のことですか?、道場とはどんな所ですかですか?と問いましたら・・・、維摩居士は、「道場とは、施設や場所の事ではなく、直心の事です。なぜなら、嘘や偽りが無いからです。 そして、実直な心を持った上で、更にそれを実際に行動に移すことですね。」【きれいごとを言っているばかりで、何も行動が伴っていなければ、何も起こりません。」と諭しました。

修行に対して深く掘り下げて思惟する心、それらに対する深い確証です。これがすなわち道場なのです。なぜなら、こうすることで功徳を増やしていく事が出来るからで
す。 「深心」は、利他や修行に対して深く掘り下げて思惟する心、それらに対する深い確証です。これがすなわち道場なのです。こうすることで功徳を増やしていく事が出来るからです。・・・、」という事の様です。

この『維摩経』菩薩品第四 の解説を受けまして、自分が理解したのは、書物や法話で良いことをおそわるは、人格形成に大いに役立ちますが、 本当に役に立のは それを実行してです。
仏教知識を知るにとどめず、 日々実践の生活を、そのように行う事で、菩提心(悟り)が得られる と・・・、今回の①曰く、 理屈も無価値とは言わないまでも、実践して なんぼと いう事の様です。
 ・・・それ! 理解はできますが、実践するは、難しいですね! 実践しなければ その知恵 は価値初めて無いと言ってるのです! きついですね! 実践はしんどいですヨ!


第二講 の法話は、他に、

② ―― 「(食べ物を) 得たのは善かった」「得なかったのも善かった」と思って、完(まったき)き人はいずれの場合も平然として環(かえ)っ来る。  
ブッダのことば』712

(解説 省略)

③ ―― 「麗しい白蓮華が泥水に染まらないように、 あなた(仏陀の事)は善悪の両者に汚されません、雄々しき人よ、両足をお伸ばしなさい。サビヤ(仏弟子の名)は師を礼拝します。
 『ブッダのことば』547

(解説 省略)


と続きましたが、此処ではで これまでとします。 いずれ機会があれば・・・、又、


●こんな法話が好きです。 特に興福寺務老院 多川俊映寺師がお気に入りです。 良ければ ご一緒しませんか? お声掛けください。